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今、働き盛り


第13回
那波精工
森隆則さん


受注拡大に早くも成果

 工具製造に着手して1年にも満たない段階で新工場の建設計画が浮上、7月から移転、稼働を目指す那波精工に営業マンが入社した。森隆則さん、35歳。前職は再研専業メーカーに勤務し、6年間、名古屋を中心に工具の再研の受注に奔走した。
 「2月に入社したばかりなので実績でモノが言える立場にはまだ達していないが『頼まれると断れない』をセールスポイントにしていきたい」
 Nava Mill(ナバミル)の製作が昨年末の時点で月間100万円程度だったのが2月には300万円以上、3月はさらにプラスαをものにし、拡大基調に乗せている。ちなみに2月時点でφ20ミリ、φ25ミリのエンドミルを130本製作。
 「工具製造を始めるに当たって、航空機、自動車、工作機械メーカーをターゲットにしたが航空機が先行している」(那波雅伸社長)現状にあって、「耐熱鋼の加工でどこまで攻め切れるか」を目下、自らの営業テーマに揚げているそうだ。
 第一印象は爽やか。芯の強さも感じ取れる。営業に向いていると思いますか、との筆者の質問には「営業しかできない」との答えが返ってきた。
 「ほとんど無名の会社なので、何をやっているかとよく問われるが、現状はエンドミル、今後はカッタを製作していく方向性も検討していると説明している」と客先からのニーズも視野に入れた製造へのテーマも投げかける。
 那波社長によると「森君の雇用によって受注量が飛躍的に増えていきそうな気配。昨年、導入したワルター製工具研削盤がフル稼働に近い状態なので新たに牧野製を設備した。営業マンももう1人雇用する予定」と言う。すでに『戦力』をアピールできている。
 「客先で生産性を上げて頂く、付加価値を設けた営業提案を実践していきたい」
 福岡県出身で、那波社長と同郷だ。






第12回
ゼノー商事
山下時夫さん


「よく働き、よく遊ぶ」を基本に30年

 菱高精機製品の販売部隊で、各工具メーカーの代理店でもあるゼノー商事に山下時夫さんという東京支店長がいる。昭和53年入社の53歳で「働き盛りですね」と声をかけると「遊び盛りです」と威勢のいい声が返ってきた。
 大阪以西が土佐機工、名古屋以東がゼノー商事の販売エリアで、東京支店の管轄は浜松から北海道と非常に広範囲にまたがる。フットワークの良さがないと勤まらない。
 「当社は今年で35周年。私の入社当時は首都圏中心の営業だったが、今は、東京支店は営業5人体制で、販売店、直需の客先をフォローするようになった」
 大学は工学部機械科。製造現場を希望していたが、就職難の時代で、就職課の掲示板に「機械工具」と貼り出され、目に止ったのがこの業界に入ってくるきっかけ。「営業を志した訳ではなかったが、地元で就職したかったものだから」と茅ヶ崎出身の山下さんにとって次善の選択肢だったようだ。
 "よく働き、よく遊ぶ"を山下さんは若い時からモットーにしている。
 「当時、浜松町にあった事務所で仕事を終えると、酒は苦手なのに飲み屋をハシゴする日々。帰宅せずに事務所にそのまま寝ることもしばしばだった。八方破れ的な動きそのものだったが、楽しかった。菱高精機というメーカーがバックにあったことも、他の問屋さんにはない面白みとして加わったように思う」
 就職難が"福"となったかどうかはわからないが、製造現場にいる山下さんは想像し難い。「営業マン」が似合っている、と思う。年商30億円に迫る業績を上げる同社の"リード役"と言ってもいい。
 「仕事を苦だと思ったことは一度もない。人との縁で付き合いが生まれ、商売が成立する。ただ、残念なのは産業の底辺を支えている業界なのに人材が集まりにくいこと。ニッチな世界だが、ものづくりを支えているという自負は持ち続けていたい」
 歌舞伎が好き、ミュージカルが好き、要するに「舞台」観劇が好きだとか。いい意味で接客される側の興味を引く場所に通じている。先日、マスター以下全スタッフがマジシャンという珍しいスナックを筆者も案内して頂いた。




第11回
栄工舎
佐々木正城さん


材料手配、外注周りで営業のバックボーンを養成

 温厚な人柄がとても印象的。工具販売の営業マンらしさを感じられず、思わず、「何がきっかけで?」と問いかけると、佐々木正城さんは「前社長と家が近かったから」との答えが返ってきた。今は4人のスタッフで構成される東京営業所の所長代理。肩書きの点でも「働き盛り」と言えようか。
 佐々木さんは昭和61年に栄工舎に入社した。業務に配属され、納品、伝票周り、さらに受注生産のため社内製品の材料手配、外注先との交渉と、業務の仕事内容は広範囲にわたったと言う。
 「熱処理、表面処理やコーティングといった2次加工を委託していた現場の方から工場内を案内されたりして、今の営業のベース、バックボーンはこの頃、教えていただいた」
 栄工舎では当時、ハイスのリーマが中心だったが、時代的には超硬が市場に出回り始めるようになった頃。同社ではグラファイト加工用に「エアホール・エンドミル」という超硬製品を扱うようになり、これがきっかけとなって、超硬製品が増えていく起点となったそうだ。
 「同じ刃物でも材質、熱処理、コーティングなどを組み合わせて客先に提案できる、業務時代に培ったこの点を評価していただけるのが楽しい」という。しかし、販売店との同行PRで
客先を回るたびに「営業は難しい」と感じることがある。質問には必ず、答えを出す必要があるーがプレッシャーのひとつだそうだ。
 商品群では
「リーマの栄工舎」だけではない「カッタの栄工舎」の地位も確立しつつある。
 「当社がミニシリーズと呼んでいるφ2ミリからの小径、全長80センチのロングシャンクなどが好評を得ている。昨年、初出展したJIMTOFでも多数の引き合いをいただき、まだその"余震"は続いている。超硬リーマの寸法アイテムの拡充など、要望される事柄も多かった。4月のインターモールドまでにリーマで2アイテム、カッタで3アイテムの商品化するなど、非常に刺激的な展示会だったと、今も『出展して良かった』を実感している」
 とJIMTOFでの手応えを今も噛み締める。
 「上と下とのパイプ役を果たす年齢に達したことを自覚して、風通しのもっといい会社にしていきたい」
 高校受験を控えた女の子と中1になる男の子を抱えた41歳。





第10回
大阪工機
業務部 大阪ロジスティクスセンター・センター長 西村良幸さん


トータルシステム構築で出荷ミスゼロを目指す

 10月10日、大阪工機が東大阪に「大阪ロジスティクスセンター」を開設し、本社で管理していた在庫、主要商品6万点全てを移管した。移管に要した日数はわずかに3日。その指揮をとり、初代センター長に就任したのは、西村良幸さん。
 平成2年の入社。今や社員数150名を数える大阪工機だが、当時は60人ほど。同期入社が16名もいたというから、まさに「企業として伸びていこうとしていた時」に入社した。「営業にて入社した」が、業務課(業務部の前身)に配属され、以降、業務畑ひと筋。「与えられた環境の中で精一杯の成果を出そうと考えた」。
 企業が成長過程にある時期には社内のシステム化が進められる。同社も同様で「入社した頃は、台帳で在庫管理をやっていた」状況から、PCを利用して機能化・システム化を図りはじめていた。現在、同社の業務部では、在庫管理・物流だけでなく、カタログ、広報、システム関係も統括しているが、そういった仕事は、その当時は、必要な際に「会長・社長が直接指示していた」仕事だったという。
 成長と共に、専任の社員が要求されるようになり、彼らが所属する部署が必要とされ、それらを起ち上げる作業を入社直後の西村センター長が担った。在庫の管理から始まり、営業以外のほとんどの社内業務に携わったという。新卒の社員採用にも立ち会ったほど。この経験が今の西村センター長に育て上げていくことになる。
 「新規に起ち上げる仕事に先輩がいるわけがなく、結果、『自分で考えて動く』ことが身についた。また、他人がアドバイスしてくれたことは積極的に取り入れるようになった。今になって振り返ると、かなり自由に仕事をさせてもらい、また、そうさせてくれる周囲の人にも恵まれていた」。
 スタッフの指導は、その姿勢を受け継ぐ。「できるだけ自分で考えさせるようにしている。自分で企画して成果が出れば、新たなやる気につながるもの。もちろん、求められれば助言はするが、それを活かすかどうかは、その社員の問題。ここにいるスタッフ達は皆、自分で考えて仕事してくれているが、スタッフにも恵まれているなあと感じる」。
 現在、大阪ロジスティクスセンターが顧客から送られる注文書の数は1日に700?800枚。商品点数にして2000点近くになる。
 「顧客が欲しい商品を、欲しいタイミングでお届けする。それが我々在庫センターに与えられた使命。今後もより効率よく仕事ができるようにトータルシステム化を進め、出荷ミスが無くなるようにしたい」。
 今後やりたいことはありますか、との問いに「営業の現場に出てみたい」と。やっぱり営業志望だったのかと聞こえたが、そうではない。
 「営業の人間を通じての情報だけではなく、自分も現場に出て、顧客のニーズをもっと知ることができれば、製品を送り出す上で必ず役に立つはず」。頭の中からセンターのことがなくなることは無い。
 11歳・9歳の2人の男の子の父親。休日は、可能な限り一緒に遊ぶ。38歳。






第9回
ワルタージャパン
アプリケーション担当 内田忠男さん


「機械購入に繋がったときは嬉しさも格別」

 ワルタージャパンの現状の課題の焦点に据えられているのがアプリケーション。そのリーダーを務めているのが内田さん。その意味で、同社のキーマン的存在だ。国内の工具研削盤業界で業界2位の地位を当面の目標とする同社にあって、営業による新規顧客獲得はもちろん、リピート客をどこまで拡大させていくことができるかはこのアプリケーションの能力アップにかかっている。
 内田さんは04年4月にワルタージャパンに入社、3年目を迎えた。高校時代は物理学が好きだった関係で理系を希望して大学は機械工学を選択した。
 「父が金型メーカーに勤めていたことも、この業界を選択した理由とどこかで関係していると思う。大学の実習では旋盤やフライス、測定機などの使い方を学んだ」
 切削工具に出会ったのは、卒業後入社した牧野フライス精機・静岡工場時代。テストカットの依頼があり、図面を通じてプログラムを作成して工具を作る。
 「お客さんに満足していただいて、それが機械購入に繋がる。そんな時はやはり嬉しかった」と言う。11年間にわたって、アプリケーションを一貫して担当してきたプロフェッショナルだ。
 「ワルターは世界で初めて工具研削盤を作ったメーカー。それだけに詳細なノウハウがたくさん蓄積されている。特にソフト面の充実は著しく、種類が多いのでアプリケーションでも時間はかかる。1件当たりのお客さんの対応時間は前社時代のおよそ3倍になる」
 ユーザーの要望を実現させ、利益に直接、関わっていく内容をサポートするのがアプリケーションのが仕事と言い切る。
 「リピートオーダーが入ったときは、嬉しさを噛み締めている。お客さんに結果を認めていただいた何よりの証拠だからです」





第8回
OSG デザインセンター
開発グループマネージャー 大沢二朗さん


斬新な何かをつくりたい

  OSGがアメリカの現地法人を立ち上げた翌69年生まれ。
 少年時代から工具に興味はあったという。大学でも工作研究室に所属し、切削加工の実習では三菱マテリアルの工具を使っていた。93年に卒業するとき、父で社長の大沢輝秀氏に進路を尋ねられ、「OSGに入ろうと思っている」と言ったが、入社よりもアメリカ行きを勧められた。「英語の勉強だけではつまらない」との思いから、大学院を志し現地で勉強を始めた。94年の冬に一時帰国すると、日本はバブル崩壊後の不況。OSGでも新卒の採用数が減らされていた。一転、入社しろと言うことになり、大学院の出願書類等すべて揃えて出した後だったが、4月に入社。5月に大学院の合格通知が来た。その年の8月から再度渡米、コーネル大学の機械工学科に入学した。
 その二年で、日本での累積勉強時間の3倍は勉強したという。学部一年生の本から取り寄せ読んだ。
 その後、関連会社のQCTに出向していたが、当時は品質を向上させる提案をしてもなかなか取り入れてもらえない。そこで自ら工具を一本一本測定してから出荷することで品質を維持しようとした。「暗黒の時代」だったと振り返るが、工具を見る眼はそこで養われた。
 シカゴで再研磨のNAS Precisionも立ち上げた。当初は仕事が無かったため、「タンガロイにお願いにあがって、仕事を頂戴したこともある」と言う。
 海外から日本を見ていて、OSGの製品開発が「ひどく遅い」と感じた。斬新さが無い。日本とは違う市場で、こんなものを作ったら売れるだろう、といろいろ製品企画をやりながら苛立ちにも似た注文をつけていると、「帰国して自分でやれ」ということになり2003年12月帰国。
 年が明けると早速新しいことをやろうと、営業常務まで同行してタンガロイ製品を販売させて欲しいと交渉に行った。見積りレベルの話にまでなったが、時期を待つということに。
 子供の頃から「ひらめき」を感じるようなことが好きで、新しいことをやりたいという思いがいつもあったという。この思いから金型に特化した話題の新製品Phoenixも生まれた。ユーザーの声を取り入れて具現化していく同シリーズを手がけ始めてから、ユーザーとの接点を実感して持てるようになったという。他方、エンドミルではないまったく新しい工具も考えてゆく。
 曰く、「今やっていることも明日には古くなっているかも知れない。いつも使っているその常識は仮説にすぎない。本当に必要なのか、思い込んでいることを変えるために僕がいる」。
 近視治療のLASIKを受け、現在の視力は2.0。趣味はシカゴ時代に熱中したゴルフ。日本の梅雨と夏が苦手らしい。





第7回
OKK
才藤清宏システム営業課長代理


 大学での専攻は経営学。入社した時は、「工作機械のイロハも知らなかった」と言う。
 工場での新人実習でも、ボール盤とフライス盤との違いが判別つかずまごついた。
 そんな才藤さんが、最初に配属されたのが国内営業の東京勤務。当初は先輩とのコンビで、商社やユーザーへの販売実習。そして入社1年目で、一人のフレッシュな営業マンとしてスタートする。
 営業マンとしての最初の仕事は「飛び込み」だ。工作機械を使っていそうな鉄工所や工場を、名刺とカタログだけで無差別で訪問する。訪問先きで相手にしてもらえるところは、稀である。精神的にタフでないと勤まらない仕事だ。
 そんな毎日を繰り返す中、初めての注文をユーザーで獲得した。一人立ちして4ヶ月目のとき。その顧客から「直取引きでも良いの」と尋ねられ、「やらして下さい」と答えた。NCフライス1台を受注した。帰社して勇んで報告すると、「商権」の侵犯と言うことで、商社からクレームがついた。習慣として、工作機械の一般営業は、商販が中心。その商社を抜きにしての受注は、メーカーにクレームがつく。注文が欲しい一心の才藤さんは、そのことを忘れてしまった。当時の上司、平尾現専務から「まづい」と叱られる。
 東京につづく勤務地浜松では、OKKの知名度は高かった。このエリアの工場では、OKKのマシンがほとんど設備されていた。それだけに仕事のやりやすい地でもあった。
 この浜松で、ある2輪気化器メーカーでは、「才藤として最初の大きな商談」を纏めた。このユーザーには、OKKが入っていない数少ない顧客。きっかけは、飛び込み営業から。総台数20台弱の案件だったが、競争他社の仕事を獲得した充実感は、営業マンでは、ならではの味わえぬものと言う。
 そんな光の浜松時代にくらべて、影の時代は、浜松につづく勤務地京都。
 バブルがはじけて、工作機械不況を比喩する「半値8掛」の時代を京都で思い知らされた。
 当時、工作機械受注が業界全体で1兆円以上あったものが、その半分まで落ち込んだ。意気旺盛な才藤さんにしても、枯れるマーケットを前にして、なす術もなく、意気も衰える。
 その衰える気力を支えたのが、今ではOKKの重要顧客の京セラへの売り込みだった。その頃、OKKのグラインテイングセンタは、大手メーカーの協力工場に入ってはいたが、親元には入り込めていなかった。
 協力工場にも「本家に入ってなきゃダメだよ」と言われ、その一言で奮起、源流への販売意欲をかき立てる。
 京セラの門を叩いたのは「飛び込み」だった。3年目にして、やっと見積書を出せるまでこぎつけた。
 あとでわかった事だが過去にも数度京セラからのコンタクトは展示会等であったようだが、うまく情報が伝達されていなかったようで、面談当初はあまり核心に触れる事は少なかった。
 そんなことがあってか、京セラへリーディングセンタが入ったのは、門を叩いて5年の歳月が過ぎていた。この京都時代、市況の影響と販路構築の行き詰まりとで本社で開かれる営業会議は、才藤さんには針のムシロだった。そんな時に、海外業務部(現海外営業部)への話しが出る。
 日系大手商社委託の販路だった米国市場へ、OKKが(ローカルディーラーへ)直販することになり、結局、京セラへの機械納入を自ら立ち会うことなくその統括に米国へ渡ることになる。才藤さんとしては非常に心残りだったらしい。
 この米国で、現在の担当である「ホンダ」と知り合う。ホンダはOKKにとってA級ランクの重要顧客。専用機グループが「ホンダ」を担当していたが、汎用機営業出身の才藤さんにとっては、ホンダは初体験に等しい。
 ある日東海岸出張にホンダUSAが、V6シリンダーブロックの加工ラインをつくる説明会が「明日開かれる」と言う情報が飛び込み、急遽旅程をシカゴからコロンバスに変更し現地説明会に乗り込んだ。
 競合他社は、米国人スタッフを交えた数人のティーム、OKKは才藤さんの一人。説明会のあと、ホンダのUSメンバーから「お前、話し(英語)がわかったのか」と聞かれた。(当時は何とか言葉はわかる様になっていましたが、多勢に無勢の状況に脅威を感じましたね)
 米国ホンダの構想は直行ローダーと横型MCとの組み合わせによるき自動化ライン」と言うことだった。
 それに対し、才藤さんは、唯一多関節ロボットでの自動化ラインを提案した。多関節ロボットの活用は、搬送姿勢と加工姿勢の違いより必要となる姿勢変換の為の付帯設備が削除でき、より汎用性の高いライン構築が可能と考えた結果であった、また加工設備を日本調達、搬送設備を現地調達と言う策は、輸送コスト、システムアップ等に係わるコストが削減でき競争力アップにつながる、結果的にユーザーの設備投資額の削減に協力できると試算した結果であった、これがホンダに採用され、才藤さんにとって、米国で忘れることの出来ないビジネスの一つ。
 帰国後、現在の才藤さんは、自動車の勝ち組みホンダが担当。OKKの社内でもホンダのことは「才藤さんに聞け」と言われる。年内、ホンダへの引渡しのマシンがかなりある。
 そんな多忙のなか、楽しみは大小のヨットレースへの参戦。こちらの方も、現在、6戦6勝 仕事もヨットレースも「勝つ為の賭けはするが、負けに繋がる賭けは絶対にしない?」とか。





第6回
鈴木油脂工業
小北暁さん


ものづくりの現場で形になる喜びを実感

 「鈴木油脂の働き盛りは?」と、社員の方に聞くと「小北さん」という返事がすぐに返ってきた。ヴィッセル神戸のレプリカユニフォームを汗でぬらしたままインタビューに応じてくれた。女性営業の単独ユーザー訪問、インターネットショッピングYahoo!ショップの開店など、次々と新しい販売戦略を打出す鈴木油脂のホープだ。
 コンピューター関係の専門学校を卒業後、92年入社。パソコンのスキルを活かした仕事ということで、当初は総務に配属され、3年ほど事務職をしていた。しかし一通り総務の仕事をこなしたとの認識か、自ら「ほかの仕事もしてみたい」と願い出る。ちょうどその頃増員を図っていた製造現場へ異動。
 現在は、化成品と生活産業事業に関わる液体系洗浄剤の製造を担当している。50品目以上の在庫状況を毎朝確認し、スケジュールを組む。パートタイマーを含めたスタッフを指揮して仕事の流れを作る。年上のスタッフを含め、「コミュニケーションで一緒にモノをつくって行くのが楽しい。スタッフの性格を見て、威圧的にとられないように気をつけている」と言う34歳の好青年。一連の製造工程の管理を任されているので、原料など、一日の終わりに資材の消費状況も管
理する。市場の「需要に応えている」実感があるという。
 今はタイルクリーンなど、大型商品をつくることで「ものが出来上がっていく快感」を感じているようだが、「営業ができれば強そう。いろいろやりながら成長していきたい。最初から希望どおりでなくとも、経験してみることで自分自身の新しい部分も発見できる」と変化の多い組織の中で、成長していく意欲を見せた。
(取材メモ)仲間とやる草サッカーが楽しみだと言う小北さん。「30才を過ぎて、体が・・・」と苦笑いを浮かべるも、やはりチームワークを重視の趣味をもつのはその人柄か。





第5回
ダイジェット工業
広島営業所所長 林 久晴さん


営業現場で人脈を広げる

 一言で評すると「歯切れの良い」人物。営業の第一線に出るのは5年ぶり。中森茂常務から、「働きやすい環境作りをたのむ」と、本社から広島にこの4月に送り出された。「広島は営業技術のとき、しばしばきたところ」と、言うから、なじみの地でもある。
 同社にとっても、広島はマツダやIHIなど重要顧客を担当する地区だけに出先きとしても重要な役割の大きな場所。
 ダイジェット工業へは1974年。関西大学工学部からの入社。大学では、金属工学を専攻。卒論は形状記憶合金に関して提出したものの、超硬合金については、入社するまでは「何もしらなかった」と言う。
 入社してからは、生産技術や工程管理を5年弱経験した。続いて営業技術で第一線に出る、そのとき、最初に訪問した顧客が広島のマツダだった。それ以後、大阪支店や横浜など営業で約10年間。営業現場で林さんは、顧客と向き合う。
 営業現場で、心が踊ったことはと聞くと、横浜勤務のとき、ミラーボールの販売初日に、大手金型メーカーで担当者から「林さんが言うのなら」と、金額はすくないが、新製品を初めて受注をしたことだった。
 「テストカットなしで、OKをもらった。資料や口頭でPRしていたが」というものの、日頃の林さんの営業活動を評価してもらったような気がしたと言う。
 この横浜時代、営業の難しさを経験したときでもあった。先輩から、「関東地区はむつかしい場所や」と言うことを、再三耳にしていた。
 顧客から手痛い言葉も聞かされた。大手自動車メーカーの工場現場では、「ダイジェットさんは外資系の会社」と質問されたこともあった。その当時は、標準工具を本格的に手掛けていなかっただけに、関東地区でのものづくりの現場での認知度は低かった。
 そうしたなかでも、当時の
林さんなりに人脈を広げる。自動車メーカーの担当者や、機械メーカー担当者とのつき合いは今も多くあり、それが財産となっている。
 林さん自身、これからやりたい仕事はと聞くと、販促を5年経験したが「マーケティング」と返ってきた。商品企画や経営戦略を進めたい思いがある。
仕事に対するスタンスは、大変積極的で、研究心も旺盛。上司曰く「物恐じをしない」。
 中長期をみて同社も「選択と集中が迫られる:その時の頼られる人材に」と、この広島でじっくりと勉強したいようだ。
 現在、大阪に妻と子供2人を残し単身生活。趣味のキャンプも当面おあずけだが、月1回は、愛車のVWで近くの温泉へ行くのが、最近のストレス解消法とか。富山県出身。44歳。





第4回
三菱電機産業メカトロニクス
放電グループマネージャー 林 晃さん

「放電加工機は当社のビジネスモデルに」

 85年入社。大学時代の空手部の部長が就職部の担当で、三菱電機に知り合いがいたのがそもそもの機縁だった。
 「その面談担当者と意気投合し、あれよ、あれよという間に内定した。空手の気合だったのか、お互いのバンカラぶりの相性があったのか」
 林さんは癖がないのが癖とも言われる。業務課長時代の5年間、産業メカトロニクス事業部内で活発な意見交換とともに、調整役に徹し、全体の舵取りをこなす。気づけば林さんのペースになっていることから
「林マジック」と評する人もいた。たとえば、埼玉・武蔵浦和に昨年開設したソリューションセンターは林さんのイニシアティブによるところが大きい。
 業務課長から今春、放電グループのマネージャーに異動した際「久々のライン復帰で、気合が入っています」とのメールが当社にもあった。先日、名古屋で開かれたプライベートショウに早くもインドのお客さんを案内するなど、そのフットワークの良さを見せつけた。
 加工機のお客さんは中小企業が大半、入社当初は新人にもかかわらず常に経営者と接し、刺激を受ける。他の事業部ではなかなか経験ができない。
 「アイディアとプラン双方を提示し、どうすればお客さんが儲かるかを考えていく、新人の時代からその訓
練ができたことは大きい」
 93年にはバブル崩壊から、大幅な人員減少によってレーザと放電の営業を兼務、その翌年からは放電の営業に専念することになった。

 「当時、放電加工機の需要が減り、やがてなくなるかも、と言われた。でも、日本の高付加価値なモノづくりには金型は必須。先細るどころか、必要との認識がその後、高まってきた」
 入社からおよそ15年間の中部支社勤務を経て本社業務部に異動、翌年、課長に昇進した。だが、01年下期は事業部がいまだかつてないほどの赤字を出したときで、各部署から「サイテー」と非難の嵐。不成績の憤懣が直接、林さんに向けられたこともあったという。
 「ひたすら堪えるだけの時期だったが、苦しい時に真剣に考えたことが、今に繋がっている。また、関係部門からは、叱責とともに結果的には支援してもらえたことも大きい」
 と当時を振り返ると林さんも苦笑いした。
 産メカでは放電加工機世界シェア30%獲得を掲げる。
 「もちろん、クリアできる数字。放電加工機は、販売と製造を含めたグローバル展開を進めており、シェアの高さも加え、当社の代表的なビジネスモデルになりうる。モノを通して見える世界を堪能していきたい」






第3回
三菱マテリアルツールズ
営業企画部長 金子善昭さん


「旬があるのが工具。だから毎日が勝負」

 三菱マテリアルツールズと言えば、金子さんと、すぐ口を衝いて出てくる。一般的な社内評価はもちろん、高田社長、増田副社長ら幹部からの信任も厚い。特に流通政策で辣腕を振るう人物として、ディーラーの間でその名を知らない人はいないだろう。
 年齢42歳。三菱金属時代、代理店だった金商又一で超硬を担当して以来、ダイヤチタニットセンター、MMCダイヤチタニット、三菱マテリアルツールズと、販売組織の変遷、発展はあれど、三菱の超硬製品販売の1線には常に「カネコ」の名が刻まれている。
 「MMCダイヤチタニットの設立準備を手がけて以降、直接の販売ではなく、販売していくための枠組み作りを手がけてきた。非常にやりがいがある。工具には旬があり、日銭を稼ぐ感覚が付き纏う。だからこそ毎日が勝負であり、人間関係でも常に情熱的で
ありたいと思う」
 三菱の超硬は大手自動車ユーザーから参入していったため、かつては6割が直売、4割が流通だった。が、現状では流通が直売を上回り始めた。
 「特殊な技術を要する客先は直売を軸に展開していけばいい。幅広いニーズには流通で対応していきたい。総合的に見て強力な組織作りをいかに構築していくか」
 ツールズ発足から3年間は足腰を鍛える期間だった。4年目となる今年度からは「お祭り騒ぎ的」にではなく、「08年度までに売り上げ1000億円」という超硬製品事業部の5割を担う部隊として、今回のツールズフェスタの標題にも掲げた「アクティブ」を強く意識していきたいと言う。
 「今回、発表した新サーメットは国内販売500億円を達成するための切札と思っていただきたい。使っていただければ、その真意はわかっていただけるはず」
 と新サーメット販売に当たっての自信のほどをチラリ。





第2回
サンドビック・コロマント事業部
執行役員 中部営業統括 福岡信彦さん


隠れたエース登板

 サンドビックに「福岡あり」の事を知ったのは、今から14〜5年前のこと。
 当時の福岡さんの上司が「福岡はうちの宝や」と言ってはばからなかったほど、早くから社内で嘱望されていた。そして、歴代の事業部長は、福岡さんをかなり頼りにした。
 しかし、世間では、マーケティングや経営企画の裏方仕事だけに、その存在は余り知られなかった。
 そのコロマントの隠れたエースが、この1月から中部営業統括役として、表舞台に出てきた。
 その背景には、サンドビック・コロマントが、日本の切削工具市場に本格参入したのが1969年。国内で初めての替え刃式工具を携えての進出。
 ところが、日本のマーケットは、なかなか海外系メーカーを寄せつけなかった。その原因のひとつは、国内に強力競合メーカーが多かったこと。これに対抗して、サンドビックは、新たな技術、新たな製品で、顧客の生産性向上を訴えつづけた。
 そんな国内市場で歴代の同社トップは「15%のシェア確保」が悲願でもあった。それを左右するのが、中部地区営業の成績如何にかかっていると言ってもよい。
 その責任の重さを知りつつも、「国内5支店の中でトップの成績を実現する」と並々ならぬ決意を語る。
 この中部エリア、自動車産業が密集するだけに、切削工具の激戦地区。サンドビックは、このエリアに、コロマントは業界でも初の30代の高宮支店長を誕生させたのをはじめ、レベルの高い若手営業技術員を数多く配置した。
 その若手集団の「サポート役に徹したい」と自らの役割りを話す。
 福岡さんは、大学を卒業して、「マーケティングの仕事をやりたい」思いで、1982年に、サンドビックに入社した。大学の専攻は「学生時代の最後は思い切りアカデミックに」と、文学を専攻。学生時代から英独文学を原書で読破するだけに、語学力は確か。また、山岳部に属して、国内の高峰を歩破した体育会系。
 音楽同好の奥さんとは恋愛で結ばれ一女一男。その奥さんは、中部担当になった福岡さんに「食事では気をつけて」と送り出された。
 社内でも酒豪で通る。アルコールが入るとカラオケのマイクにも手を伸す音楽好き。奥さん分析は「気が短い」とか。仕事では決断力は早い。将来のサンドビックジャパンを背負う人材と異論は聞かれない。 
 記者メモ・ツールビジネスに精通しているだけに、未来ビジョンも描ける人材のひとり。





第1回
植田機械
営業課長 植田修平さん

「ありがとう」の一言が一番嬉しい

 大阪府東大阪市長田東にある工作機械販売商社の植田機械(松田紀男社長)。同社の次代を担う一人と目されているのが、営業課長の植田修平氏。高校・大学とラグビーをやっていたという植田課長。バックスで鳴らしたという。大学卒業後、機械の世界に進むことを考えた植田課長は、ソディックの加工工場で7年間勉強をした。現場での経験を生かし、6年前に父親の植田精一氏(現会長)が創業した同社に入社した。
 営業活動を行う上で大事なことは「知識の量。常に情報を得るためのアンテナを張っておくように心がけている」。入社後、社の方針でもあったというが「UMシステムサポート」内で3ヶ月間、先輩SEのアシスタントに付き、CAD/CAMを徹底して学んだ。「CAD/CAMをある程度理解しているのとしていないのとでは、大きな差がある。今は、CAD/CAMが分からないと機械を動かせない時代だから」
 その後、先輩営業マンの後ろでかばん持ちからのスタート。以来6年が過ぎたが、勉強の日々が続いているのだとか。「様々なことに興味を持つ必要がある。お客様が機械を購入される方法はいくつかある。この機械が欲しい、と言ってこられるお客様ばかりではなく、実際に作業をされる中で生じた問題点を挙げられ、その解決法を尋ねてこられるところから、ご購入頂く話になることもある。現在、工作機械において、少しずつ改良されていくものを含めると、発売のサイクルは短く、それら商品に対する知識をより多く持っている必要がある。お客様が作業されている現場では、どのような仕事をされているのか、どのような問題が起きているのか、日々学ぶ姿勢が何よりも大事」
 植田課長の名刺には、『日工販SE(セールスエンジニア)』という肩書きがついている。日本工作機械販売協会が開く勉強会に参加し、その後6〜12ヶ月間の通信教育を受け、テストに合格したものだけがもらえる資格。三年毎の更新テストも義務付けられている。
 仕事にやりがいを感じるのは「もちろん、お客様にご購入頂ければ嬉しいが、それ以上に嬉しいときが『ありがとう』と言って頂けた時。お客様の側で問題が発生し、解決の手助けで奔走した後に
『ありがとう』と言って頂けたときには、本当にこの仕事をやっていて良かったと思う」
 血縁者が創業した会社に勤めていることに対する何らかの思いはあるか、という少し意地の悪い質問に「今はなくなった。とにかく1人前の営業マンとして自立できるようになる努力している。やれる限りの事をやり、やる限りには上を目指そうと考えるようになった。若い時には難しく、そう考えられるようになるまで社会にでてから長い時間かかりましたが」と微笑む。
 五歳年下の妻と2歳になる子供が1人いる。「仕事柄、あまり接する時間がもてないが、趣味は子供です」と照れくさそうに話す笑顔が印象に残った。