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| トップの研究と課題 |
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| 碌々産業 野田謙一社長 |
| 第四・4半期は急速に厳しくなってくると思う。こう語るのは微細加工機のパイオニアメーカー、碌々産業の野田謙一社長だ。07年度の受注総額「1兆5千億円」はほぼ『確定圏』に入り、1兆6千億円到達の可能性もあるとの観測も流れるが「工作機械業界にも踊り場が来る」その序章が繰られると言うのだ。 「その結果、企業数は減ってくるかもしれないが、残る会社は合理化を図り、より力強くなってくるのではないか。工作機械の本筋は世界的な市場価格を考慮した、品質重視の製品を提供していくことにあると考える」 野田社長のひとつの持論は「3割減産、2割価格アップ」、「工作機械はじっくりとつくり込む」にある。ハイテク製品で値段の叩き合いは勘弁してもらいたいとの意味が根底にあるのだろう。社内の営業スタッフにも生産性、精度、価格の相関関係を意識した展開を図れ、との指示を出している。 野田社長は昭和37年に慶応大学法学部卒業後、碌々産業が提携していた仏のフライス盤メーカー、ヒューロンに入社する。初めてボール盤やタレット旋盤を扱った、良き思い出の職場となったようだが「技術提携が結ばれ、日本人3人が派遣されて、一緒になって開発に取り組んだ時、フランス人の技術者がそのスリ合わせ技術に驚き、出来上がった1号機を前にして『オリジナルよりいい』と絶賛した。精度を追求していく、こだわりは、日本人に特有のものとその頃から肌で感じていた」 ちなみにヒューロンのフライス盤はかつて部品点数が900点、その後NC機の時代になって、素材、形状での差別化が図られ、機械の部品点数も100点くらいに簡素化されていると言う。 フランスには通算2年、フランス人のものの考え方を一通り学んで日本に帰国。国内営業に従事するも、半年を経る頃には今度は台湾へと赴き、牧野フライス、三菱重工、オーエム製作所、大日金属、野村製作所といった提携先の国内メーカーの機械販売に乗り出していく。 「入札関係の仕事だったが、その仕様書を作成する中で工作機械に対する知識を身に付けていった。同時に、工作機械づくりはゆとりをもたせることの大切さを痛感した」。 若き頃より、現在まで野田社長のどの断片を切り取っても「こだわり」「ゆとり」という2つの言葉がいつも、ものづくりについて回った。 碌々産業が生き残りをかけて微細加工機を世に問うたのが90年代半ば。ワールドワイドで見た稼働台数は累計500台と決して多くはないが、日本国内はもちろん、欧州をはじめ韓国、中国といった国々でも「微細・精密」を追求するユーザーからの高い支持を得ている。その理由の一端が『ロクロクイズム』とも言える「工夫とゆとりをもたせたものづくり」にあるのでは、と思う。 「自分で何か作ってみたいという若い人は多い。工場のある、地元静岡の高校生と話 をしてみるとその意識を強く感じる。当社でも35歳以下が85人くらい、半数以上を占めている」ものづくりの次代を担う層について野田社長は決して悲観していない。日本人のものづくりへのこだわりには歴史的バックボーンがあり、そのDNAは今でも若い人に受け継がれているとの固い信念があるからだ。 「もちろん、辛抱も必要になる。10年くらいは要するかもしれない。しかし、いいものを作れば日本は潰れない。反対にいいものを作れなければ日本は危うい」 (取材メモ) バブルが弾けて市場規模が半分になった時でさえ、ほとんどの工作機械メーカーは生き残ったことを例に挙げ「他の産業では到底考えられない事態」であり「資本力があっても経営できるものでもないことの証」という性格を野田社長は工作機械業界に与える。世襲制、必ずしも悪くない、と強調する、創業家系3代目の社長でもある。東京都出身の68歳。 写真:静岡工場は来訪者を含め若い人の熱気で充満している) |
| 日本特殊陶業 セラミック関連事業本部長 住田克彦氏 |
| 昨年、70周年を迎えた日本特殊陶業。6月末に発表した昨年度の決算短信では、売上高3448億9千1百万円(前年比21・1%増)、営業利益524億1百万円(同26・2%増)、当期純利益340億7千2百万円(同35・7%増)と3年連続で過去最高を更新した。機械工具事業を含むセラミック関連事業も売上高239億(同9・1%増)と堅調である。同社のセラミック関連事業本部、住田克彦事業本部長に話を聞いた。 現在、日本特殊陶業(以下、日特)では「ものづくり改革」を進めている。「伝統的に『製造』を中心に置き、『販売』を後回しにしてきた面がある。この1年半、その意識改革に力を入れてきた」と住田本部長。 1974年に入社し、特殊工具部に配属されて以来、一貫して機械工具畑を歩んできた。元々は技術職としての採用だったが、「工具の事は現場を見ないと判らない」と、志願して営業へ。1999年に製造部長として「作る」側に戻るが、営業・営業技術と、「販売」サイドでユーザーの声を拾い続けてきた経験から、「ユーザーの視点に立ったものづくり」を進めた。現場からの「たたき上げ」として就任する例が多かったという同社の生産現場の歴代トップだが、住田本部長はその異例とも言える経歴を背景に、「顧客密着型の商品開発」を生産現場に浸透させた。セラミック事業全般を見るようになった今では、さらに一歩踏み込んだ改革を進めている。「『製造ありき』のものづくりは『要る物を要る時に』という現在の市場の要求と乖離している。見直しを行う際に取り入れた手法はTOC(註1)。生産計画を組む人間から実際に作る人間までの全てを、トップダウン方式にして意思統一するなど、リードタイム短縮に向けた意識改革を行った。最近、製造現場ひとり一人に効果の現れが感じられてきたので、今後は営業も含めた全セクションで意思統一を図ることが課題。スループットを上げつつ、業績全体を伸ばしていきたい」。 同社の工具事業を支えているのはセラミック切削工具の製造販売だが、工具材種に超硬・サーメットも扱うようになってきた。その元となったのは、スイス型自動盤向けバイトホルダ「SSバイト」シリーズの開発。チップ以外の事業として大きくなり、今や、売上げの3割を支える商品となっている。「セラミック以外の材種に関しては、セラミック工具の補完として立ち上がったもの。工具の全てを手掛けようとは考えていない。小物部品加工向けに、『SSバイト』はこの4?5年で大きく伸びたが、それは、機械メーカーと一体となって、10年以上、自動盤ユーザーの声を拾い上げてきた成果。工具の性能面以外に、口コミによる新規ユーザーやリピートユーザーの獲得等の顧客へのアピール方法、流通を通じた販売の大切さなども学んだ。今後も顧客密着型の商品開発を進めていきたい」。 セラミック工具・SSバイトに次ぐ商品を開発し、セラミック事業の幅をもっと広げることを今後の課題に挙げる住田本部長。「昨年、従来にない規模の設備投資を行った。今後も、設備面、人材面ともに、積極的かつ計画的に投資を行っていきたい。セラミック工具のアプリケーションを増やしていくことは、当社の強みを伸ばしていくと同時に、セラミックメーカーの義務だと感じている。さらに、弱点であったツーリング関連の強化を進め ていき、事業の柱の一つとして育てていきたい」。 今後拡大を図るセラミック工具の重要なアプリケーションの1つに、アメリカ市場を中心とした航空機部品加工を挙げる。アメリカ内で「NTKのセラミック」の知名度は高いという。30年ほど前からスタッフを派遣し、当時のアメリカに殆ど無かったセラミック工具を、BIG3を中心とした自動車部品加工に向けて地道に展開し続けてきた成果が実っている。「セラミックの強みは『高能率』であること。タービンブレードなどは、高価なハイニッケルの鋼材のほとんどを切粉にして作り上げる。『加工コスト低減』という自動車部品とは逆の、『高能率加工の追求』というのが航空機部品加工のニーズ。セラミックは、この点で最適だと思う。代表的なものに耐熱合金加工に向いている『ウイスカーセラミック』などがあるが、これらを中心に航空機に注力していきたい」。 仕事を離れると、テニスに没頭。休日のほとんどを費やす。メジャー大会開催時にはテレビ観戦して寝不足気味になることもあるとか。腕前の方は、スタッフ曰く「かなりのもの」で、社内コンペでも何度か入賞している。「プレーするだけでなく、仕事とは異なるコミュニティーを持つことで、気分転換には最適」。55歳。 (註1)『TOC』=制約条件の理論。最も弱い部分を強化・改善し、最小の努力で最大の成果を挙げようとするマネジメント手法。 【後記】 昨年度、情報通信・セラミック事業に向けて114億円強の設備投資を行った日本特殊陶業。今年度は、384億円強が予定されている。また、同社では岐阜県可児市に工業用地も確保している。セラミック関連事業、その中の機械工具事業にどれだけ割かれるのかは不明だが、同社の積極性には大きな期待が寄せられる。 |
| マパール 舟橋敏行社長 |
| 頬髯・大声・巨漢と、その外見は、見るものに「豪快な人物」というイメージを与えるしかし、当人を知る者は皆、口をそろえる。曰く、「非常に繊細な人物」と。マパール、舟橋敏行社長に対する評である。かつて部下であった人物の命日には、毎年、故人が好きだったというカサブランカの花束を供え続けている。同社長の人物を物語る1エピソードである。 マパールの社長として陣頭に立ち指揮を取り、昨年度の成績は、一昨年度に比べて、売上げベースで55%伸ばした。同社長が就任して以降、2年半の期間に、企業規模はおおよそ3倍ほどにまでなっている。
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| 森精機製作所 森雅彦社長 |
| 10年後には連結で年商3000億円以上、マンパワーで6000人規模の企業グループに育て上げたい?これが森雅彦社長が描くひとつの近未来像だ。親父とは違うことをしてみたい、そんな動機から伊藤忠商事に8年間在籍したが、森精機に移り、業界入りして今年で15年目という歳月が流れようとしている。「(大企業にもかかわらず)決断のスピードが速い」という、業界内外での評価は、雅彦氏にバトンが手渡されて以降、特に顕著になってきているように思える。 月産で今や800台体制を構築し、累積出荷台数はワールドワイドで17万台を突破している。ここ3年間、日本の工作機械業界全体が高原状態を継続し、今年度も5%アップの1兆5千億円という目標に挑んでいくなか、リーディングカンパニーのトップとして、どのような現状認識を持つのか、伊賀事業所を訪ね、聞いてみることにした。
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| セコ・ツールズ・ジャパン 松田剛一社長 |
| ワールドワイドのツールビジネスの世界で、「セコ」のブランド力は高い。ところが、日本市場で30年の歴史をもつ「セコ」の切削工具も、正直に言って、国内シェア1%未満とマイナーに甘んじている。そのセコが、やっと日本で本格的に拡販をスタートさせようとしている。その拡販で、最初に手をつけたのが、国内法人のトップ人事。初の日本人社長に松田剛一氏を、工作機械分野の日本DMGからヘッドスカウトした。 従業員4千3百名、売上高900億円強。日本の切削工具の世界で「セコ」とはどんな会社かと問われても、案外知っているようで知られていない。いわば知る人ぞ知るの域を出なかった。 国内でのマーケティングも、消極的。しかし、欧州や北米では、サンドビックやケナメタルと肩を並べるほど知名度は高い。とくに難削材加工の多い航空機分野では、セコの実績はズバ抜けて高い。しかし、国内でこれまでほとんどトップのカオが見えなかった。
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| シチズンマシナリー 岩崎年男社長 |
| シチズン時計の初任給は良かった−岩崎社長は開口一番そう言って笑った。1961年に静岡工業高校卒業後、東京・田無工場の技術部検査課に配属される。 「当時、他社の初任給は1万円以下で、面接時に会社から提示された金額が1万2千円だったのに、実際には1万5千円だった。3000人規模の会社で120人の採用と言うことにもシチズンの勢いを感じた」と言う。 時計業界でセイコーがトップ、シチズンがその後を猛追しようとするなかで、岩崎社長の東京・高田馬場での寮生活がスタートする。寮の先輩、同輩から休みになるとボーリングに誘われ「はまった」そうだが"高給与"もすぐに底をつくアフター生活でインジョイした面もあった。 「配属された部署は設備されていた工作機械の検査の仕事で、フライス盤、ジグボーラー、プロファイル研削盤など工作機械全般に関わることができ、これが後々まで私のベースになった」 購入品の検査、設備機械の点検などにも携わったほか、当時、月産20台ほど製造していた自動盤のキサゲ作業にも従事する。 精機工場が65年に発足したのに伴い異動となり、その3年後にはNC自動盤の開発に参画しつつ、市場調査のリーダーとして大手ユーザーを渡り歩くようになる。 「NC自動盤の第1号ユーザーにミネベアが決定後、島津製作所、三洋電機、三菱電機と相次いで受注に成功した。70年代当時でNC自動盤の価格が1300万円くらい。スター精密のカム式の自動盤が80万円くらいだったことを考えると非常に高価なものだった」そうだ。 NC自動盤の初年度販売実績は6、7台。ミネベアに向けた初出荷は71年1月-これが記憶すべき記念日となるが、量産するためには数が必要となる。岩崎氏はそのために、ヨーローッパ、アメリカへと向かうことになる。 「70年代後半にジーメンスにNC自動盤を持ち込み、評価された。手では複雑な形状が作れない。円弧形状、精度のいいテーパ加工などができることで設計のフリーハンドが広がり、市場の開拓、拡大につなげる端緒を切り拓くことができるようになった」 60年代にカム式自動盤が普及し始めたアメリカ市場の70年代と言えば移民が増えてきた頃で、しかも現場では移民に技術を教えないという風潮があったそうだ。それ自体がNC自動盤販売にうってつけの条件を与えており、80年代に入ると販売が加速していく、その下地を成していた。 「NC自動盤への認識が次第に広がる中でゼロックス、ヒューズ、GM、フォードなど、大手の工場を訪問した。どの現場も余裕をもって仕事に従事しているのが印象的で、販売もさることながら、いい工場をつくってみたいという夢が次第に膨らんでいった」そうだ。 岩崎社長自身は80年代の初めには帰国するが、80年にはその後ベストセラー機となる「F12」が発表される。必要なときに、必要な量を、というトヨタ自動車の看板方式に即応する機種で、価格は1000万円。ちなみにこの機種は現シチズン時計の杉本健司常務が設計し、工作機械業界からも「名品」と評価された。 この機種の投入により、カム式自動盤の加工領域にも入り込めるようになり、日本市場でカム式のリプレースを促す大きな武器をシチズンが手に入れたことになる。その反響の大きさから製造コストを半減させて量産工場を立ち上げることが最大のテーマとなり、シチズン時計ではNC自動盤を主体とする軽井沢工場建設計画が浮上、製造会社としてシチズン精機が設立、別会社化され、アメリカ時代から「製造希望」を打診していた岩崎社長は、軽井沢工場長として83年12月、シチズン精機に出向することになる。現地採用も含め、16人でスタート。平均年齢は20歳以下と言う極めて若いスタッフで構成された。工場は1直120時間体制。当時の月産で40台だったという。 「その後、カム式をさらに追い込んだのがL16、B12の両機種で、特にB12では2次加工もできるようになり、現在、稼働しているシンコム4万台のうちおよそ1万台がこの機種で占められる大ヒット商品となった」 90年代のバブルまでは国内85%、海外15%の比率だったが、バブルが弾けてからは国内市場からアジア市場に乗り出し、シンガポールを皮切りにマレーシア、香港と販路を開拓していく。 「01年に営業、サービスをシチズン精機に統合し、構造改革を実施したが、これは言わば守りの構造改革だった。06年の中期計画では年商500億円達成という拡大の絵を描いた。主軸固定型のチャッカー機の市場を取り戻すべく100億円の上積みを図り、主軸移動型と合わせて計画を達成していきたい」 06年度の販売見通しは3700台。月平均で300台強となり、自動盤トップメーカーの実力に相応しい成果と言えようか。 「稼働率100%を超えれば注文が来る。客先の方では仕事はあるものの、一服感が出始めている。ある意味でマインドが冷え込んでいると思う。1月17、18日の名古屋でのプライベートショーで来場されたユーザーさんに刺激を与えていくことにある程度成功したと思う」 (取材メモ) 岩崎社長は手を動かすのが好きで、軽井沢周辺で山歩きをしながら温もりのある「木」を発見するのが趣味。現在、64歳で、リタイア後の生活を思い描き3年前に別荘を買った。東京に住む奥さんには月に2回しか会えないらしいが「単身赴任が長かったので、お互いの生活が確立されている。却って、このくらいのペースがいい」。シチズン時計の純粋持株会社化を受け、4月1日付でシチズンメカトロニクスをシチズンマシナリーが合併する。中期計画での新たな課題が岩崎社長を捕える。リタイア後の生活をどうするか、本音のところでは、まだ、その絵は描きにくいのではないだろうか。 |
| ミヤノ 齊藤佳春社長 |
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再生機構の支援を受けつつ自主再生の道を模索していたミヤノが、昨年9月22日、東京証券取引所2部に新規上場を果たした。支援を受けた企業では初の快挙である。これを機に、再生の陣頭指揮を執っていた前社長・大澄裕巳氏は取締役相談役に勇退。後任として社長職を受け継いだのが齊藤佳春氏だ。永年、同社の海外部門を取り仕切ってきた、生え抜きの齊藤新社長の登板は、ミヤノ復活をより印象づける人事と言える。 「ミヤノはお客さんから愛されている」。つくづくとこれを感じた2年間であったという齊藤社長。「『のんき』とは言わないが、長年受け継がれてきたミヤノカラーが顧客に愛されていた。2年前、再生支援決定がなされた時、受注が半減することを覚悟したが、数多くの顧客・商社さんに支えられ、叱咤激励され、それがどれだけ我々の励みになったことか。お客さんあってのミヤノであると、肝に銘じている」。 |
| ユキワ精工 酒巻和男社長 |
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今年11月3日に創業60周年を迎えたユキワ精工。精密加工用のツーリングシステムやCNC円テーブル・割出台をはじめ、ドリルチャック・キーレスドリルチャック等のチャッキングツールという工作機器分野で大手にはない持ち味でファンを獲得、拡大してきた。酒巻和男社長が入社した昭和45年当時は「作れば売れる」時代だったと言うが、時代の移りゆきの中で、今後、どんな提案を基軸に据えるのか、節目を迎えたのを機に自然環境に恵まれた山紫水明の地、新潟・小千谷の本社を訪ね、今後のものづくりのテーマを聞いてみた。
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| タンガロイ 徳永昭大社長 |
| 若き日の徳永さんは東芝の入社試験のとき、採用担当者と論争する。新入社員時代、上司の部長に「今の仕事、何が面白いのですか」と、詰め寄る。異色の社員だったようだ。その人物が、東芝タンガロイの最後の社長であり、只今、業界の時の人でもある。徳永さんは社長就任4年目で、大仕事を二つやってのけた。一つはMBO、そして今回のOSGとのグループ化への布石。この大仕事、本人にすれば「やった」と言うより「やらされた」との思いが強いようだ。 信号機が一つもない種子島で、10人兄弟の4番目に生まれ育った。島の高校を卒業するまで、街そのものも知らなかった。大学入試のため、初めて熊本に出てきて、赤、青、黄色の信号に「びっくりした」と言う。そんな素朴を絵に描いたような少年期を送った人物が、経営の先端手法のMBOをやってのけたのも運命のいたずらか。 工具の世界で、名門と言う言葉が通用するなら「タンガロイ」は、超硬工具の「名門」と言える。 1960年代、多くの人が、超硬工具のことを「タンガロイ」と呼んだ。注文するときも三菱のタンガロイ、住友のタンガロイと言った。日本の超硬工具の創成期を語るとき、タンガロイ抜きでは語れない。 親会社の東芝は、タンガロイのトップに、長年、役員経験者を送り込んできた。この人事、玉石混合と批判した人もいた。その影響かどうかわからないが、同社がトップシェアから業界3位に後退したのは、紛れもない客観的事実。 そして、東芝から最後に送り込まれたのが、徳永昭大社長。徳永さんは、この人事について、再三、東芝の人事部長に断った。本人にすれば、パスしたものと思っていたら、「頼む、2年で良いから、たのむ」と頼み込まれてしまう。当時、徳永さんは、北芝電気の社長として、6年目を迎えていた。赤字だった業績も、黒字に復帰。そろそろ、第一線からの引退を考えていた時でもあった。だが、結局、2年の約束で社長に就任する。 徳永さんは、教育家の家庭に生まれた。熊本大学に進学するとき、「母親は教師の免許を取ることを条件に、進学を許してくれた」と言う。 徳永さんは、その約束を無視してしまったばかりか、学生徳永昭大は、かなり異色の学生として、大学で有名になる。 その頃の学校と言えば、60年安保闘争で揺れ動き、「全学連でなければ、学生に非ず」の状況。学校周辺は、常にデモの波。 そんな波の中に、異色の波を捲き起こしたのが、徳永さん。アンチ全学連を構内で組織。デモも法規を守り、市民の共感を呼んだ証拠に、デモ中は、多数の市民からパンや牛乳などの差し入れがあった。 高校時代も生徒会長をやるなど「ハタ振り」は好きなようだ。 そして就職期を迎える。第一志望は銀行だった。だが、面接で採用担当者と論争を起こす。徳永さんの字引には「媚びる」と言う字句がなかった。銀行の結果はアウト。そして、東芝へ入社。 「メーカーに入社したのだから、ものづくりの近いところ」と希望したものの、事務屋で、生産管理。技術をやっている人間は、東芝でも少なくて、会社も困ったようだが、府中工場で引き受けるということで、同工場に配属になった。 この府中工場で経験したことが、徳永さんの「仕事観」を大きく変える。それを教えてくれたのが、タタキ上げの生産管理課長。時代もメカからエレクトロニクスへの変革期。上司の課長は「自分では時代に適応できない。若手にやらせたい」と言うことで徳永さんを呼んだ。これは後でわかったこと。 仕事への提案も「やるべきだ」と賛成して、関係部署に「徳永が説明に行くのでよろしく」と裏で根回しをしてくれていた。それを知らない徳永さんは、「当時ボク一人の力で出来たと思った」という。 このように、徳永さんの青春時代は、ものづくりの現場の真只中にあった。 そのあと、本社で生産企画。国内外の拠点づくり、東芝での最後の仕事は、府中工場長。徳永さんは話す「入社以来12〜3回、仕事が変わったが、中には不満な仕事もあったが、総じて楽しい東芝時代だった」と。 タンガロイの社長に就任した時、東芝が株を手放すことは知らされていなかった。 ところが、証券会社や銀行が「タンガロイは売却が決っているんだから、早く準備を」と言って来る。徳永さんにすれば、外野からいろいろ言われるのが「面白くない」。 本社へ走り込んで「売却が決定なら仕方がない。タンガロイの成長に役立つ売却をしてもらいたい。僕も勉強するので1年間だけ、株売却を待ってほしい」と提案した。 それからの1年、最も「苦しかった」と言う。相談する相手もなし、いろんな証券会社にもMBOについて、ヒヤリングを受けた。しかし、どれもこれも悲観的な話ばっかり。 |