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トップの研究と課題


碌々産業 野田謙一社長
 第四・4半期は急速に厳しくなってくると思う。こう語るのは微細加工機のパイオニアメーカー、碌々産業の野田謙一社長だ。07年度の受注総額「1兆5千億円」はほぼ『確定圏』に入り、1兆6千億円到達の可能性もあるとの観測も流れるが「工作機械業界にも踊り場が来る」その序章が繰られると言うのだ。
 「その結果、企業数は減ってくるかもしれないが、残る会社は合理化を図り、より力強くなってくるのではないか。工作機械の本筋は世界的な市場価格を考慮した、品質重視の製品を提供していくことにあると考える」
 野田社長のひとつの持論は「3割減産、2割価格アップ」、「工作機械はじっくりとつくり込む」にある。ハイテク製品で値段の叩き合いは勘弁してもらいたいとの意味が根底にあるのだろう。社内の営業スタッフにも生産性、精度、価格の相関関係を意識した展開を図れ、との指示を出している。
 野田社長は昭和37年に慶応大学法学部卒業後、碌々産業が提携していた仏のフライス盤メーカー、ヒューロンに入社する。初めてボール盤やタレット旋盤を扱った、良き思い出の職場となったようだが「技術提携が結ばれ、日本人3人が派遣されて、一緒になって開発に取り組んだ時、フランス人の技術者がそのスリ合わせ技術に驚き、出来上がった1号機を前にして『オリジナルよりいい』と絶賛した。精度を追求していく、こだわりは、日本人に特有のものとその頃から肌で感じていた」
 ちなみにヒューロンのフライス盤はかつて部品点数が900点、その後NC機の時代になって、素材、形状での差別化が図られ、機械の部品点数も100点くらいに簡素化されていると言う。
 フランスには通算2年、フランス人のものの考え方を一通り学んで日本に帰国。国内営業に従事するも、半年を経る頃には今度は台湾へと赴き、牧野フライス、三菱重工、オーエム製作所、大日金属、野村製作所といった提携先の国内メーカーの機械販売に乗り出していく。
 「入札関係の仕事だったが、その仕様書を作成する中で工作機械に対する知識を身に付けていった。同時に、工作機械づくりはゆとりをもたせることの大切さを痛感した」。
 若き頃より、現在まで野田社長のどの断片を切り取っても「こだわり」「ゆとり」という2つの言葉がいつも、ものづくりについて回った。
 碌々産業が生き残りをかけて微細加工機を世に問うたのが90年代半ば。ワールドワイドで見た稼働台数は累計500台と決して多くはないが、日本国内はもちろん、欧州をはじめ韓国、中国といった国々でも「微細・精密」を追求するユーザーからの高い支持を得ている。その理由の一端が『ロクロクイズム』とも言える「工夫とゆとりをもたせたものづくり」にあるのでは、と思う。

 「自分で何か作ってみたいという若い人は多い。工場のある、地元静岡の高校生と話をしてみるとその意識を強く感じる。当社でも35歳以下が85人くらい、半数以上を占めている」
 ものづくりの次代を担う層について野田社長は決して悲観していない。日本人のものづくりへのこだわりには歴史的バックボーンがあり、そのDNAは今でも若い人に受け継がれているとの固い信念があるからだ。
 「もちろん、辛抱も必要になる。10年くらいは要するかもしれない。しかし、いいものを作れば日本は潰れない。反対にいいものを作れなければ日本は危うい」
  (取材メモ)
 バブルが弾けて市場規模が半分になった時でさえ、ほとんどの工作機械メーカーは生き残ったことを例に挙げ「他の産業では到底考えられない事態」であり「資本力があっても経営できるものでもないことの証」という性格を野田社長は工作機械業界に与える。世襲制、必ずしも悪くない、と強調する、創業家系3代目の社長でもある。東京都出身の68歳。
写真:静岡工場は来訪者を含め若い人の熱気で充満している)


日本特殊陶業 セラミック関連事業本部長 住田克彦氏
 昨年、70周年を迎えた日本特殊陶業。6月末に発表した昨年度の決算短信では、売上高3448億9千1百万円(前年比21・1%増)、営業利益524億1百万円(同26・2%増)、当期純利益340億7千2百万円(同35・7%増)と3年連続で過去最高を更新した。機械工具事業を含むセラミック関連事業も売上高239億(同9・1%増)と堅調である。同社のセラミック関連事業本部、住田克彦事業本部長に話を聞いた。
 現在、日本特殊陶業(以下、日特)では「ものづくり改革」を進めている。「伝統的に『製造』を中心に置き、『販売』を後回しにしてきた面がある。この1年半、その意識改革に力を入れてきた」と住田本部長。
 1974年に入社し、特殊工具部に配属されて以来、一貫して機械工具畑を歩んできた。元々は技術職としての採用だったが、「工具の事は現場を見ないと判らない」と、志願して営業へ。1999年に製造部長として「作る」側に戻るが、営業・営業技術と、「販売」サイドでユーザーの声を拾い続けてきた経験から、「ユーザーの視点に立ったものづくり」を進めた。現場からの「たたき上げ」として就任する例が多かったという同社の生産現場の歴代トップだが、住田本部長はその異例とも言える経歴を背景に、「顧客密着型の商品開発」を生産現場に浸透させた。セラミック事業全般を見るようになった今では、さらに一歩踏み込んだ改革を進めている。「『製造ありき』のものづくりは『要る物を要る時に』という現在の市場の要求と乖離している。見直しを行う際に取り入れた手法はTOC(註1)。生産計画を組む人間から実際に作る人間までの全てを、トップダウン方式にして意思統一するなど、リードタイム短縮に向けた意識改革を行った。最近、製造現場ひとり一人に効果の現れが感じられてきたので、今後は営業も含めた全セクションで意思統一を図ることが課題。スループットを上げつつ、業績全体を伸ばしていきたい」。
 同社の工具事業を支えているのはセラミック切削工具の製造販売だが、工具材種に超硬・サーメットも扱うようになってきた。その元となったのは、スイス型自動盤向けバイトホルダ「SSバイト」シリーズの開発。チップ以外の事業として大きくなり、今や、売上げの3割を支える商品となっている。「セラミック以外の材種に関しては、セラミック工具の補完として立ち上がったもの。工具の全てを手掛けようとは考えていない。小物部品加工向けに、『SSバイト』はこの4?5年で大きく伸びたが、それは、機械メーカーと一体となって、10年以上、自動盤ユーザーの声を拾い上げてきた成果。工具の性能面以外に、口コミによる新規ユーザーやリピートユーザーの獲得等の顧客へのアピール方法、流通を通じた販売の大切さなども学んだ。今後も顧客密着型の商品開発を進めていきたい」。
 セラミック工具・SSバイトに次ぐ商品を開発し、セラミック事業の幅をもっと広げることを今後の課題に挙げる住田本部長。「昨年、従来にない規模の設備投資を行った。今後も、設備面、人材面ともに、積極的かつ計画的に投資を行っていきたい。セラミック工具のアプリケーションを増やしていくことは、当社の強みを伸ばしていくと同時に、セラミックメーカーの義務だと感じている。さらに、弱点であったツーリング関連の強化を進め
ていき、事業の柱の一つとして育てていきたい」。
 今後拡大を図るセラミック工具の重要なアプリケーションの1つに、アメリカ市場を中心とした航空機部品加工を挙げる。アメリカ内で「NTKのセラミック」の知名度は高いという。30年ほど前からスタッフを派遣し、当時のアメリカに殆ど無かったセラミック工具を、BIG3を中心とした自動車部品加工に向けて地道に展開し続けてきた成果が実っている。「セラミックの強みは『高能率』であること。タービンブレードなどは、高価なハイニッケルの鋼材のほとんどを切粉にして作り上げる。『加工コスト低減』という自動車部品とは逆の、『高能率加工の追求』というのが航空機部品加工のニーズ。セラミックは、この点で最適だと思う。代表的なものに耐熱合金加工に向いている『ウイスカーセラミック』などがあるが、これらを中心に航空機に注力していきたい」。
 仕事を離れると、テニスに没頭。休日のほとんどを費やす。メジャー大会開催時にはテレビ観戦して寝不足気味になることもあるとか。腕前の方は、スタッフ曰く「かなりのもの」で、社内コンペでも何度か入賞している。「プレーするだけでなく、仕事とは異なるコミュニティーを持つことで、気分転換には最適」。55歳。
(註1)『TOC』=制約条件の理論。最も弱い部分を強化・改善し、最小の努力で最大の成果を挙げようとするマネジメント手法。

  【後記】
 昨年度、情報通信・セラミック事業に向けて114億円強の設備投資を行った日本特殊陶業。今年度は、384億円強が予定されている。また、同社では岐阜県可児市に工業用地も確保している。セラミック関連事業、その中の機械工具事業にどれだけ割かれるのかは不明だが、同社の積極性には大きな期待が寄せられる。


マパール 舟橋敏行社長
 頬髯・大声・巨漢と、その外見は、見るものに「豪快な人物」というイメージを与えるしかし、当人を知る者は皆、口をそろえる。曰く、「非常に繊細な人物」と。マパール、舟橋敏行社長に対する評である。かつて部下であった人物の命日には、毎年、故人が好きだったというカサブランカの花束を供え続けている。同社長の人物を物語る1エピソードである。
 マパールの社長として陣頭に立ち指揮を取り、昨年度の成績は、一昨年度に比べて、売上げベースで55%伸ばした。同社長が就任して以降、2年半の期間に、企業規模はおおよそ3倍ほどにまでなっている。


 1947年、名古屋に生まれる。2人兄弟の長男。
 1968年、大学(商学部)に通う傍ら、日本特殊陶業に入社。
 入社後に所属したのは検査課。同課ではその頃、日特のセラミックに関する全商品の検査を行っていた。その中で、舟橋社長が担当していたのは工具部門。スローアウェイチップはまだ少なく、ロー付けバイトが主体の頃だった。ノギスやマイクロメーターを片手に、設計図どおりに製品が出来上がっているかを調べ続ける毎日だった。
 切削工具との出会いは、そこが初めてだった。「工具のことは全く判らなかった」なりに、図面の数値から少しでも外れていれば全てダメだしを行っていたことから、「素人が何様だ」と製造部門のスタッフとは始終ぶつかっていたという。
 専門書を片手に、大学卒業までの4年間、仕事の中で工具を学び続けた。やがて、品質管理課と名称が変わるが、寸法検査、外観検査、材料検査から、それらの検査項目・検査ルール作りまで学んだ。
 製造部門と丁々発止のやり取りを行う中、気に入られるようになり、工具部門から声が掛かる。工具のハンドブックの図面書きから始まり、切削加工テストと「一つ一つ勉強させてもらった」ことが、その後に活きてくる。
 関東の両毛地区攻略を命じられ、26歳で初めて営業マンとして上京した。小山・宇都宮の事務所を中心に営業車で走り回り、日産チェリーは、3年間で15万キロを走破した。当時のライバル会社の営業マンからは「舟橋の行った後はぺんぺん草も生えない」と言わしめた。その中で、人脈は独自に育ってゆく。
 31歳のときには仲間に助けられながら、米国新工場設立プロジェクトに参画。
 1982年、米アーバイン工場のプロダクトマネージャーとして渡米。そこでは、工場の運営の仕方はもちろん、工場設備の仕方、安全に対する考え方などを学ぶ。当時、日本製品不買運動『バイ・アメリカ』が起こり、日本製自動車は、目の仇にされ、米国進出の日系企業は次々と撤退していた。そんな中、文字通り孤軍奮闘していたのが舟橋社長だった。「振り返ってみれば、私が働いてきた企業には投資ばかりしてもらった」。今も感謝しているという。
 1988年、帰国後海外事業部に籍を置くも、社内の学歴中心のパワーゲームに嫌気がさし、退社の道を選んだ。その頃の不快さから、現在、社員の人事考課には学歴を持ち込まない実力主義。
 翌年、渡米中顧客の1つであったケナメタル本社に日本人で初めて入社した。日特時代から始まったケナメタル本社との取引を通じて親しい人が多く、「非常にファミリー的」な企業だったという。担当したのは、対日戦略を練ること。「周囲の人の支えもあり、やりたいようにやらせてもらえた。彼らを裏切らないように、応えようと思った」。
 同社における舟橋社長の大きな功績の1つが、日系F社からOEMで、2面拘束のKMツーリングをトヨタに採用させ、日本市場へ広めたこと。舟橋社長と、そのスタッフA氏(現S社)とでやり遂げたものだ。
 今ひとつ、当時欧米にはなかったバニシングドリルを同F社のOEM協力で、デトロイト中心に、世界各国の自動車関連に広めたこと。
 それまでに蓄積してきた人脈をフルに活用し、2?3年で年間12億円ほどの売上を上げた。
 この結果、ストックオプションで、後に車が1台買えたほど。その後、日本法人社長を経て、アジア人では唯一、ケナメタル創業者賞である「アレックス・G・マッケンナ賞」を受けた。
 「期待されたら結果をだす」。このことに対する舟橋社長の執念は凄まじい。胆石で入院中でも、顧客の問い合わせに応え続けた。「約束はビジネスの基本」。これだけは変えない。
 ケナメタルジャパン社長を引き受けるとき、条件を1つだけ出した。「神戸の人間も、ヘルテルの人間も、新会社で全員採用すること」。営業マンとして数字を追い求め、部下にも結果を求めるが、情の篤い人物でもある。
 04年10月にマパール日本法人社長に就任後、「1ヶ月に1億円以上の商いができる企業」を「マアマア」の企業の目安として業績拡張を図ってきた。社員には無謀に見えた高い年間目標数値を掲げたが、それもクリア。07年3月期決算で、1つの結果を出した。
 「ドイツに本社がある当社にとって、今のユーロ高は厳しいが、25名そこそこの規模で、これだけの成績を上げてこられたのは、ひとえに社員が頑張ってきたから。3月の決算期には、心ばかりの寸志を出した」。
 一緒に食事を摂る等、社員への気配りを進める一方で、高い数値目標も定める。2年間半の舟橋社長の業績はドイツのマパール本社からも評価が高い。人をめったに褒めないというドクタークレスから、謝辞も受けた。
 舟橋社長自身、マパールにチャンスを与えてもらったことに感謝の念が強い。「期待されたら裏切らないように精一杯応える」。マパール本社が、舟橋社長に期待をかけ、応援し続ける限り、マパール日本は伸び続けるだろう。



森精機製作所 森雅彦社長
 10年後には連結で年商3000億円以上、マンパワーで6000人規模の企業グループに育て上げたい?これが森雅彦社長が描くひとつの近未来像だ。親父とは違うことをしてみたい、そんな動機から伊藤忠商事に8年間在籍したが、森精機に移り、業界入りして今年で15年目という歳月が流れようとしている。「(大企業にもかかわらず)決断のスピードが速い」という、業界内外での評価は、雅彦氏にバトンが手渡されて以降、特に顕著になってきているように思える。
 月産で今や800台体制を構築し、累積出荷台数はワールドワイドで17万台を突破している。ここ3年間、日本の工作機械業界全体が高原状態を継続し、今年度も5%アップの1兆5千億円という目標に挑んでいくなか、リーディングカンパニーのトップとして、どのような現状認識を持つのか、伊賀事業所を訪ね、聞いてみることにした。


 全世界の工作機械の生産額はここ10年間、毎年、3兆5千億円で推移し、うち1兆2、3千億円を日本のメーカーが占め、過去2、3年間、世界ナンバーワンの地位を堅持している。
 そして、工作機械の需要家を規模別に分類すると、5000人以上が5%、1000人以上が7?8%、100人以上が10%で、50人以下の小企業が需要の50%を担うらしい。
 「およそ半数の需要を小規模のユーザーが占めているが、この層による買換え需要や世代交代による新規需要の発生、生産性アップを図る増設など、国内を中心に今年度も非常に堅調に推移すると考える。世界的に見ても欧州は好調だし、アジアも好調、北米にしても悪くはない」
 国内自動車の一服感を指摘する業界人は多いが「世界的にはトヨタやホンダなど、自動車関連の需要はここ3年間、ほとんど変わっていない。25%という工作機械の需要に占める割合もほぼ一定」として、"世界視"に立った判断からの、自動車業界に対する森社長のスタンスには「期待」ではなく、緻密な計算に裏打ちされた「冷静さ」が垣間見えた。
 「昨年のJIMTOFも盛況のうちに幕を閉じ、工作機械産業全体が見直されつつあると思う。生活レベルの向上には、工業の発展とそれを支えるマザーマシンの進展を抜きにマシンの進展を抜きには考えられないが、その意味で日本の工作機械メーカーは世界の宝であると自負している。アジアの各メーカーは日本のコピーであり、そう捕えると、『日本発』の工作機械技術は70%を占めると言ってもいい」
 優秀な人材も集まりだしたと言う。森精機製作所ではここ数年、120人くらいの採用を見ているほか、派遣社員の正社員への登用も積極的に推進している。グローバル化対応への一環として、TOEICの受験を奨励し「800点以上は今では200人」にも達するそうで、トータルで見た人材育成にはおよそ17億円、売り上げの1%を費やしており、1人当たり年間で50万円程度にのぼる。
 「テレビコマーシャルを2年間くらい出しているが、学生のリクルートにはストレートに影響しているほか、『お父さんが勤めている会社がテレビに出ている』と家族からの認知も得て、誇りがいっそう持てるようになったと評判がいい。社員の平均年齢が39歳で、平均年収が750万円、2年間の産休制度も敷いており、松下やシャープと比べても遜色はない」と胸を張る。
 1ヵ月のうち、10日から12日は海外のディーラーを含む客先を訪問する。「お客さんと膝を交えることが現場に身を置くことと同意語」との信念で、国内外を飛び回る。が、仕事一辺倒ではない。
 「ゴルフは仕事絡みでもあるが、スクールに通うようになって目覚めた。月に2、3回のゴルフは90を切れるようになった」とスクール通いと上達ぶりの"相関関係"を説く。最近では1級船舶の免許も取得したが、サンドビックの藤井副社長自ら操縦する船に招待され、感激したのがひとつのきっかけだったと言う。
 「ものづくりの現場に対して、農家の、せめて10分の1程度でもいいから、税制上の優遇措置を図っていただければと思う。そうすれば、工作機械の市況環境はさらに良くなり、全世界で生活に必要となる製品づくりがもっと活性化される。世界的な人口増は、工作機械業界にとって今後もフォローの風を吹かし続ける最大の要因だ」
 業界にとって、不安要素は見当たらないと言うのが森社長の基本認識。ただ、為替のリスクや戦争の可能性といった窺いしれぬ数例は除く、と「森辞典」の末尾には書かれてあった。



セコ・ツールズ・ジャパン 松田剛一社長
 ワールドワイドのツールビジネスの世界で、「セコ」のブランド力は高い。ところが、日本市場で30年の歴史をもつ「セコ」の切削工具も、正直に言って、国内シェア1%未満とマイナーに甘んじている。そのセコが、やっと日本で本格的に拡販をスタートさせようとしている。その拡販で、最初に手をつけたのが、国内法人のトップ人事。初の日本人社長に松田剛一氏を、工作機械分野の日本DMGからヘッドスカウトした。
 従業員4千3百名、売上高900億円強。日本の切削工具の世界で「セコ」とはどんな会社かと問われても、案外知っているようで知られていない。いわば知る人ぞ知るの域を出なかった。
 国内でのマーケティングも、消極的。しかし、欧州や北米では、サンドビックやケナメタルと肩を並べるほど知名度は高い。とくに難削材加工の多い航空機分野では、セコの実績はズバ抜けて高い。しかし、国内でこれまでほとんどトップのカオが見えなかった。


 靖国神社にほど近いセコ・ツールズ・ジャパンのオフィスに、松田社長を訪ねた。
 記者は開口一番、セコへの入社動機はナ
ニでしたかと聞いた。「良質な製品に魅せられて」と返ってきた。
 19才のとき、ドイツの職人の世界に憧れて、単身、日本を飛び出した。1980年のこと。
 ドイツは、父君が山本機械通商(現YKT)の海外バイヤーとして活躍した国。その影響もありドイツに渡り、平面研削盤のユングに入社。
 「昔で言ったら丁稚奉公、月給は1万円そこそこ。言葉は多少準備はしていったつもりでも、ほとんど役に立たず」と笑う。
 ユングでは、床掃除にはじまり、職人やマイスターの下働き、週に1日を職人の養成学校に通う。
 そんな生活を3年半つづけた。この間の生活費は、父親からの仕送りでしのいだ。
 松田さんは、「子供の頃から機械いじりが好きだった」と言うように、機械油のニオイが下手な女性の香水より好ましいと言う人でもある。
 そして、ユング社の製造現場でマイスターの資格も獲得し、計10年を過ごした。セコのツールを知ったのもユング社の時代。
 「ユングの現場でも、刃物で困った時は、セコのカタログを良く利用した。職人の間では、困った時のセコ頼み」と言ったことが、しばしばだったと言う。
 6年半に及ぶユングから、ヤマザキマザックの現地法人に転身する。転身の理由は、幅広く工作機械をやってみたいとの思いから。「ヤマザキマザックでは、顧客と向き合うサービスエンジニアから出発、営業、さらにはマネジメントの仕事も任された」
 松田さん自身、マザックでの10年間、仕事も油に乗った頃、日本から「父、重病」と連絡が入る。
 本国に帰ろうかと思案をしていた時に、DMGから、「日本法人をつくりたい。やってくれないか」と、言ってきた。
 そして01年に、日本DMG社長として、20年に及ぶドイツ生活に別れをつげ、帰国する。
 当時、日本でのDMG機は、いろんなルートで入っていた。法人立ち上げの当初の仕事は「クレーム、サービスの仕事がほとんど」と言うように、手さぐりだった。
 欧州で5軸のマシンは一般化していたが、日本での5軸マシンに対する評価は「5軸マシンなど必要なの?」との評価を、DMGがひっくり返すのにかなりの苦労があったようだ。
 そうした苦労が一段落し軌道に乗り始めた頃に、セコから声がかかる。
 このオファーに、松田さんは二つ返事でOKしたわけではない。松田さんなりに、かなり細部にわたって、セコの国内法人の問題点を分析したようだ。
 その分析をもとに、再生プランを練り上げた。そのプランには、少なからずの国内投資の案件も含まれていたと言う。
 「ここに来てわかったことだが、個々のスタッフは大変に優秀なんです。それが思ったより成績が上がらなかったのは、トップやマネジメントにも問題があった」
 平たく言えば、「赤字にさえならなければ、収益性さえ損なわなければ」と言った思惑が、販売行動を大きく制約していた。
 このため、それまでの顧客層は、難削材で問題をかかえているところのユーザーとか、航空機関連の顧客に集中していた。
 この結果、ミーリングのセコとの評価は固まったものの、その枠を超えられなかった。
 松田さんは、社内向けの社長就任第一声は「国内でのセコの歴史を変えます」と、アグレッシブなものだった。
 その第一歩として、金沢などのローカルな見本市にも積極的に出品する。ターニングツールにも参戦するし、キャンペーンもスタートさせた。
 製品メニュー、経営についてもパワフルなものへと、松田社長は闘う集団として、3年後の10年には、販売、人員の倍増プランも打ち出した。
 (取材メモ) プライベートの松田さんは、今、中高年の間で静かなブームになっているオートバイでのツーリングが趣味。イタリー製のアプリリアを駆って、箱根へ風を切りに行くこともある。結婚はドイツでの国際結婚。家での会話はドイツ語とか。



シチズンマシナリー 岩崎年男社長
 シチズン時計の初任給は良かった−岩崎社長は開口一番そう言って笑った。1961年に静岡工業高校卒業後、東京・田無工場の技術部検査課に配属される。
 「当時、他社の初任給は1万円以下で、面接時に会社から提示された金額が1万2千円だったのに、実際には1万5千円だった。3000人規模の会社で120人の採用と言うことにもシチズンの勢いを感じた」と言う。
 時計業界でセイコーがトップ、シチズンがその後を猛追しようとするなかで、岩崎社長の東京・高田馬場での寮生活がスタートする。寮の先輩、同輩から休みになるとボーリングに誘われ「はまった」そうだが"高給与"もすぐに底をつくアフター生活でインジョイした面もあった。
 「配属された部署は設備されていた工作機械の検査の仕事で、フライス盤、ジグボーラー、プロファイル研削盤など工作機械全般に関わることができ、これが後々まで私のベースになった」
 購入品の検査、設備機械の点検などにも携わったほか、当時、月産20台ほど製造していた自動盤のキサゲ作業にも従事する。
 精機工場が65年に発足したのに伴い異動となり、その3年後にはNC自動盤の開発に参画しつつ、市場調査のリーダーとして大手ユーザーを渡り歩くようになる。
 「NC自動盤の第1号ユーザーにミネベアが決定後、島津製作所、三洋電機、三菱電機と相次いで受注に成功した。70年代当時でNC自動盤の価格が1300万円くらい。スター精密のカム式の自動盤が80万円くらいだったことを考えると非常に高価なものだった」そうだ。
 NC自動盤の初年度販売実績は6、7台。ミネベアに向けた初出荷は71年1月-これが記憶すべき記念日となるが、量産するためには数が必要となる。岩崎氏はそのために、ヨーローッパ、アメリカへと向かうことになる。
 「70年代後半にジーメンスにNC自動盤を持ち込み、評価された。手では複雑な形状が作れない。円弧形状、精度のいいテーパ加工などができることで設計のフリーハンドが広がり、市場の開拓、拡大につなげる端緒を切り拓くことができるようになった」
 60年代にカム式自動盤が普及し始めたアメリカ市場の70年代と言えば移民が増えてきた頃で、しかも現場では移民に技術を教えないという風潮があったそうだ。それ自体がNC自動盤販売にうってつけの条件を与えており、80年代に入ると販売が加速していく、その下地を成していた。
 「NC自動盤への認識が次第に広がる中でゼロックス、ヒューズ、GM、フォードなど、大手の工場を訪問した。どの現場も余裕をもって仕事に従事しているのが印象的で、販売もさることながら、いい工場をつくってみたいという夢が次第に膨らんでいった」そうだ。
 岩崎社長自身は80年代の初めには帰国するが、80年にはその後ベストセラー機となる「F12」が発表される。必要なときに、必要な量を、というトヨタ自動車の看板方式に即応する機種で、価格は1000万円。ちなみにこの機種は現シチズン時計の杉本健司常務が設計し、工作機械業界からも「名品」と評価された。
 この機種の投入により、カム式自動盤の加工領域にも入り込めるようになり、日本市場でカム式のリプレースを促す大きな武器をシチズンが手に入れたことになる。その反響の大きさから製造コストを半減させて量産工場を立ち上げることが最大のテーマとなり、シチズン時計ではNC自動盤を主体とする軽井沢工場建設計画が浮上、製造会社としてシチズン精機が設立、別会社化され、アメリカ時代から「製造希望」を打診していた岩崎社長は、軽井沢工場長として83年12月、シチズン精機に出向することになる。現地採用も含め、16人でスタート。平均年齢は20歳以下と言う極めて若いスタッフで構成された。工場は1直120時間体制。当時の月産で40台だったという。
 「その後、カム式をさらに追い込んだのがL16、B12の両機種で、特にB12では2次加工もできるようになり、現在、稼働しているシンコム4万台のうちおよそ1万台がこの機種で占められる大ヒット商品となった」
 90年代のバブルまでは国内85%、海外15%の比率だったが、バブルが弾けてからは国内市場からアジア市場に乗り出し、シンガポールを皮切りにマレーシア、香港と販路を開拓していく。
 「01年に営業、サービスをシチズン精機に統合し、構造改革を実施したが、これは言わば守りの構造改革だった。06年の中期計画では年商500億円達成という拡大の絵を描いた。主軸固定型のチャッカー機の市場を取り戻すべく100億円の上積みを図り、主軸移動型と合わせて計画を達成していきたい」
 06年度の販売見通しは3700台。月平均で300台強となり、自動盤トップメーカーの実力に相応しい成果と言えようか。
 「稼働率100%を超えれば注文が来る。客先の方では仕事はあるものの、一服感が出始めている。ある意味でマインドが冷え込んでいると思う。1月17、18日の名古屋でのプライベートショーで来場されたユーザーさんに刺激を与えていくことにある程度成功したと思う」
  (取材メモ)
 岩崎社長は手を動かすのが好きで、軽井沢周辺で山歩きをしながら温もりのある「木」を発見するのが趣味。現在、64歳で、リタイア後の生活を思い描き3年前に別荘を買った。東京に住む奥さんには月に2回しか会えないらしいが「単身赴任が長かったので、お互いの生活が確立されている。却って、このくらいのペースがいい」。シチズン時計の純粋持株会社化を受け、4月1日付でシチズンメカトロニクスをシチズンマシナリーが合併する。中期計画での新たな課題が岩崎社長を捕える。リタイア後の生活をどうするか、本音のところでは、まだ、その絵は描きにくいのではないだろうか。



ミヤノ 齊藤佳春社長

 再生機構の支援を受けつつ自主再生の道を模索していたミヤノが、昨年9月22日、東京証券取引所2部に新規上場を果たした。支援を受けた企業では初の快挙である。これを機に、再生の陣頭指揮を執っていた前社長・大澄裕巳氏は取締役相談役に勇退。後任として社長職を受け継いだのが齊藤佳春氏だ。永年、同社の海外部門を取り仕切ってきた、生え抜きの齊藤新社長の登板は、ミヤノ復活をより印象づける人事と言える。

 「ミヤノはお客さんから愛されている」。つくづくとこれを感じた2年間であったという齊藤社長。「『のんき』とは言わないが、長年受け継がれてきたミヤノカラーが顧客に愛されていた。2年前、再生支援決定がなされた時、受注が半減することを覚悟したが、数多くの顧客・商社さんに支えられ、叱咤激励され、それがどれだけ我々の励みになったことか。お客さんあってのミヤノであると、肝に銘じている」。
 旋盤機メーカーである同社は支援を受けるようになって以来、事業の『選択と集中』を進めた。機種の統廃合を進め、当時60種類はあったラインナップを36機種に圧縮。中・小型の旋盤機に特化する道を選んだ。バー材は34mmが中心、チャックワークは8インチまで。特殊ものも取りやめた。「従来機が廃止になることで、ご迷惑をおかけしたお客さんもいる。特に旧来からの多軸自動盤ユーザーには大きな影響があったと思う。メンテナンスを行うサポート会社のミヤノエンジニアリングを立ち上げ、オーバーホール等にご対応し、今ではお客様にもわかって頂いている。しかし、あの時に『選択と集中』を進めたことで、今のミヤノがあると思っている」。
 齊藤社長は、再生機構の支援が決まった後、人事の刷新を行う機構の意向を受けドイツ現地法人社長に就任。欧州全般を飛び回った。渡独指令には「これだけご迷惑をお掛けして、今辞める訳にはいかない」と覚悟を決めたという。
 同社長は長い間海外部門を担当し続けてきた。1970年にミヤノへ入社し、当時、三鷹にあった工場に労務として赴任。工作・組み立て現場で8ヶ月を過ごした後、管理部門に移る。
 1978年にアメリカに渡ったのが初の海外赴任。結局、7年の在米生活が続くのだが、この時の経験が今の齊藤社長の原点であるという。
 「アメリカでは管理を任されていたが、小さな所帯で、注文受け、顧客との折衝から、事務所の経理まで、何から何まで全て自分でやった。それがどこで役に立つものやら。おかげで、今の自分が出来上がった」。
 当時、アメリカで最も販売した同社製の機械は「BNCシリーズ」。これは現在のベストセラー機「BNJシリーズ」の旧機種にあたる。齊藤社長が赴任した頃のアメリカ市場への常識的イメージは
「見るからに剛性が強そうな、大きな機械でないと売れない」。しかし、そのイメージにとらわれず売り込んだ、小型の「BNCシリーズ」が爆発的にヒットした。日本国内で売れていた「DNシリーズ」と共に同社の成長を担ったという。
 85年に帰国後、総務を勤めた後、国内営業のまとめを経て、海外営業部長を経て2年間ドイツ現地法人社長に就任した。
 「渡独後、幸運なことに、日本でもドイツでも景気が良好化し、ミヤノ復活の大きな追い風になった。また、前任者が、地元代理店と良好な関係を築き上げてくれていたことも助かった」。
 昨年9月で「再生」が終わり、今後は「成長」へと転化するミヤノ。「社員一人ひとりに、慢心が生まれぬように、前進あるのみ。また、上場を果たしたことで、社会的な責任、株主・機関投資家の皆様への対応が大切になりました」。
 現在、3ヵ年の中期計画を進行中。08年までに売上高246億円を達成し、利益率20%、有利子負債ゼロを目指している。「『新米』の社長として景気の変動に不安もあるが、今年一杯は良い景気が続きそう。利益率20%で業界ナンバー1を目指す」。
 娘さんに贈られた料理本を片手に、厨房に立つことが趣味という齊藤社長。長かった海外への単身赴任時代には、週末に現地のスタッフを集めて、その腕前を披露したこともあったという。もうひとつの趣味が読書。「司馬遼太郎ファン」。ともに物静かな雰囲気の齊藤社長によく似合う。
 モットーは「健康で明るく元気良く」。ウォーキングを定期的に行い、体調管理にも気を配る。昭和23年生まれの58歳。(写真:上場記念に東証から贈られた小槌)




ユキワ精工 酒巻和男社長

 今年11月3日に創業60周年を迎えたユキワ精工。精密加工用のツーリングシステムやCNC円テーブル・割出台をはじめ、ドリルチャック・キーレスドリルチャック等のチャッキングツールという工作機器分野で大手にはない持ち味でファンを獲得、拡大してきた。酒巻和男社長が入社した昭和45年当時は「作れば売れる」時代だったと言うが、時代の移りゆきの中で、今後、どんな提案を基軸に据えるのか、節目を迎えたのを機に自然環境に恵まれた山紫水明の地、新潟・小千谷の本社を訪ね、今後のものづくりのテーマを聞いてみた。

 文豪・川端康成の目と酒巻社長の目がダブった。説得力があると言うか、意志の強さが目に収斂されているように思われた。大学では機械工学を専攻し、卒業後、牧野フライス製作所で6年間、加工、組み立て、生産技術の現場に身を置き研鑽を積む。創業者の跡を継ぐことに何のためらいもなく、意志を固めての入社となったようだ。
 「入社当時はドリルチャックが主体で、コレットチャック、円テーブルの生産が始まったばかりだった。製品群も拡充していく過渡期に当たり、需要は極めて旺盛。生産すれば売れていく、そんな時代だった」
 昭和45年のトピックスの代表格と言えば大阪で開催された万博。筆者自身も小学生高学年で「動く歩道」とは何ぞや?と懐かしく思い出されるが、モータリゼーションが本格化し、カラーテレビをはじめとする三種の神器が各家庭で揃えられるようになるなど、高度成長に向かって日本はひた走っていた。
 「当時は国内だけを相手していても十分だったが、ものづくりがボーダーレス化されるに及んで視野は全世界にまで広げていかないと立ち行かなくなってきた。工作機械関連分野でも、かってはバリバリ削れることが要請されたが、今は高速・高精度加工が求められる。被削材も変わってきた。特にこの10年はそれが顕著だ」
 DIY用のドリルチャックの生産は今ではすべて中国に流れたが、プロ用のドリルチャックの開発に切り替えた。技術にもレベルが存在する。加工にもレベルがある。日本のものづくりの流れの特徴のひとつは小型・精密化。そのための重要なツールを提供していくことが肝要と酒巻社長は説く。
 「小径、微細加工支援が当社の今の重要なコンセプト。精度の出ないツーリングはリプレースされていく。例えば当社のG1チャックは、小さい穴明け加工で苦しんでいる顧客から支持されつつあり、『困ったときのG1頼み』との声を頂くまでになった」
 φ1ミリのドリルがポキポキ折れてどうしようもない-振れ精度を安定させて、そんな事態を回避させる。たとえニッチでも喜んで頂けるユーザーさんがいればそれでいいと酒巻社長は言い切る。30番主軸の機械が市場で広がるにつれ、小型ツーリングに特化したやり方も有効との見解をもつ。
 工作機械関連業界は「2年サイクル」と考えると、04年秋以降から立ち上がってきたこの景況感も「今期は落ちる」(酒巻社長)と覚悟していたようだが、今秋までは前期比2桁に近い伸び率を示したそうだ。
 「前期はロータリー円テーブルの伸びが良かったが、今期前半はツーリングの伸びが大きい。客先の業種で言えば昨年は『車一色』だったが、今年前半はIT関連が好調に推移。だが下半期はまたIT関連は一服感が出始め、車関連が回復してくると思う」
 円テーブル、ツーリングは納期対応を図るため、増産体制を敷いてきた。だが、量を追うことなく、質の向上を追求する姿勢は、ハイテクを駆使する分野で高い評価を得ているという事例を引き出すまでもなく、ユキワ精工に一貫する。(写真:環境にも配慮された効率的なユキワ精工の生産工場)




タンガロイ 徳永昭大社長
 若き日の徳永さんは東芝の入社試験のとき、採用担当者と論争する。新入社員時代、上司の部長に「今の仕事、何が面白いのですか」と、詰め寄る。異色の社員だったようだ。その人物が、東芝タンガロイの最後の社長であり、只今、業界の時の人でもある。徳永さんは社長就任4年目で、大仕事を二つやってのけた。一つはMBO、そして今回のOSGとのグループ化への布石。この大仕事、本人にすれば「やった」と言うより「やらされた」との思いが強いようだ。
 信号機が一つもない種子島で、10人兄弟の4番目に生まれ育った。島の高校を卒業するまで、街そのものも知らなかった。大学入試のため、初めて熊本に出てきて、赤、青、黄色の信号に「びっくりした」と言う。そんな素朴を絵に描いたような少年期を送った人物が、経営の先端手法のMBOをやってのけたのも運命のいたずらか。
 工具の世界で、名門と言う言葉が通用するなら「タンガロイ」は、超硬工具の「名門」と言える。
 1960年代、多くの人が、超硬工具のことを「タンガロイ」と呼んだ。注文するときも三菱のタンガロイ、住友のタンガロイと言った。日本の超硬工具の創成期を語るとき、タンガロイ抜きでは語れない。
 親会社の東芝は、タンガロイのトップに、長年、役員経験者を送り込んできた。この人事、玉石混合と批判した人もいた。その影響かどうかわからないが、同社がトップシェアから業界3位に後退したのは、紛れもない客観的事実。
 そして、東芝から最後に送り込まれたのが、徳永昭大社長。徳永さんは、この人事について、再三、東芝の人事部長に断った。本人にすれば、パスしたものと思っていたら、「頼む、2年で良いから、たのむ」と頼み込まれてしまう。当時、徳永さんは、北芝電気の社長として、6年目を迎えていた。赤字だった業績も、黒字に復帰。そろそろ、第一線からの引退を考えていた時でもあった。だが、結局、2年の約束で社長に就任する。
 徳永さんは、教育家の家庭に生まれた。熊本大学に進学するとき、「母親は教師の免許を取ることを条件に、進学を許してくれた」と言う。
 徳永さんは、その約束を無視してしまったばかりか、学生徳永昭大は、かなり異色の学生として、大学で有名になる。
 その頃の学校と言えば、60年安保闘争で揺れ動き、「全学連でなければ、学生に非ず」の状況。学校周辺は、常にデモの波。
 そんな波の中に、異色の波を捲き起こしたのが、徳永さん。アンチ全学連を構内で組織。デモも法規を守り、市民の共感を呼んだ証拠に、デモ中は、多数の市民からパンや牛乳などの差し入れがあった。
 高校時代も生徒会長をやるなど「ハタ振り」は好きなようだ。
 そして就職期を迎える。第一志望は銀行だった。だが、面接で採用担当者と論争を起こす。徳永さんの字引には「媚びる」と言う字句がなかった。銀行の結果はアウト。そして、東芝へ入社。
 「メーカーに入社したのだから、ものづくりの近いところ」と希望したものの、事務屋で、生産管理。技術をやっている人間は、東芝でも少なくて、会社も困ったようだが、府中工場で引き受けるということで、同工場に配属になった。
 この府中工場で経験したことが、徳永さんの「仕事観」を大きく変える。それを教えてくれたのが、タタキ上げの生産管理課長。時代もメカからエレクトロニクスへの変革期。上司の課長は「自分では時代に適応できない。若手にやらせたい」と言うことで徳永さんを呼んだ。これは後でわかったこと。
 仕事への提案も「やるべきだ」と賛成して、関係部署に「徳永が説明に行くのでよろしく」と裏で根回しをしてくれていた。それを知らない徳永さんは、「当時ボク一人の力で出来たと思った」という。
 このように、徳永さんの青春時代は、ものづくりの現場の真只中にあった。
 そのあと、本社で生産企画。国内外の拠点づくり、東芝での最後の仕事は、府中工場長。徳永さんは話す「入社以来12〜3回、仕事が変わったが、中には不満な仕事もあったが、総じて楽しい東芝時代だった」と。
 タンガロイの社長に就任した時、東芝が株を手放すことは知らされていなかった。
 ところが、証券会社や銀行が「タンガロイは売却が決っているんだから、早く準備を」と言って来る。徳永さんにすれば、外野からいろいろ言われるのが「面白くない」。
 本社へ走り込んで「売却が決定なら仕方がない。タンガロイの成長に役立つ売却をしてもらいたい。僕も勉強するので1年間だけ、株売却を待ってほしい」と提案した。
 それからの1年、最も「苦しかった」と言う。相談する相手もなし、いろんな証券会社にもMBOについて、ヒヤリングを受けた。しかし、どれもこれも悲観的な話ばっかり。


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