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トップの研究と課題



サカイ 酒井基和社長
 大手の工具メーカーが手がけなくとも、必要とするユーザーがいるなら、該当するメーカーを"発掘"し、ニーズに見合う刃物を提供していくー切削工具専門の卸問屋、サカイはそんなスタンスを採る。
 昭和26年に酒井商店として創業。以来、一貫して切削工具、なかでもユニークな特殊品に特化し、自らは黒子に徹しながらも、ユーザーから「貴重な存在」として認知され続けてきた。
 取引する切削工具メーカーは50数社。しかも下請け的メーカーや特殊品を扱うメーカーが多い。2代目となる現社長の酒井基和さんに対するメーカー評は「マニアック」の一言に尽きるようだが、その一例を挙げれば、カタログの製作を社長自ら手がけることに表れているのではないか。
 「カタログを製作していく中で、そのメーカーの姿勢がよく伝わってくる。経営者の顔が浮かび、時には死に物狂いの形相が想像できることもある」
 カタログのどんなレイアウトが相応しいか、内容を把握しているかいないかでは、まったく異なる。また、同時にユーザーの顔もイメージできなければ、インパクトも弱い。その意味では酒井社長は至極当たり前のことをやっているだけ、とも言える。しかし、カタログを自ら製作する問屋の社長に滅多に会えるものではない。
 「メーカーの在庫品をそのまま卸すようなことはまずない。全体の3割くらいは、アールを付けたり、角度を付けたりと、ユーザーが求める形にして納めさせてもらう」
 サカイは在庫を必ずする、その真意は、在庫しなければ採寸ができず、ユーザーニーズに合致する商品に仕上げることができないからだ。言わば、メーカーの代行役を買って出ていると言っていい。ほとんどの問屋は商品を右から左に流すだけ、ひと味もふた味も違うスタンスがここにも表れていよう。
 「いい切削工具を作っているけど、客先が見つからない。ならば当社が在庫してユーザーを探し出し、時には、メーカーにユーザーが必要とする工具を作ってもらう」
 ユーザーとメーカーの文字通り架け橋となっている。同時に販売力のないメーカーにとっては、在庫を通じて客先の発掘をしてもらえる頼もしい存在であり、客観的にはメーカーの経営を支え、育てることにも通じている。
 酒井社長は工業高校で歯車用のカッタをつくっていた経験がある。自身も「工具が好きで好きで」と言う。仕事に精
通するにはこの「好き」が前提でもあろうが、その徹底振りは半端ではない。
 ディーラー営業はもとより、単独でもユーザーを回り、需要を発掘してくる。その結果、複数のメーカーの製品を組み合わせて提案したりもする。
 「あまり耳にすることはないかもしれないが、コーティング技術の進歩によってハイス工具が見直されてきている。超硬だと欠損する可能性が高いので、靭性のあるハイスを選択するケースが増えている」そうだ。
 現場に直接、耳を傾けているからこそ、こんな情報が入ってくる。
 「エキセントリック、バックテーパと言っても何のことかわからない流通関係者も多い。当社では新人にマイクロノギスで工具の計測を通じてその内容を理解させている。そうすると、興味も出てくる。面白い。工具が好き、そんなスタッフで社内が溢れてくる。これがいい」
 刃物は日々変化する。その変化を理解して販売することが大事だと酒井社長は強調する。
 「機械の進歩にようやく工具が追いついてきたという感じがするが、刃物の奥深さはまだまだ広がっているような気がする。それは我々の活動領域が広がっているということを意味している」
 年齢48歳。年男の働き盛りでもある。


三菱マテリアル神戸ツールズ 太田拓夫社長

 5月の連休中、世界の切削工具業界を唖然とさせるニュースが、インターネットを通して日本に飛び込んできた。米国企業のイスカルのM&Aの報である。だが、M&Aを国内業界で本格的に最初に手がけたのが、三菱マテリアルによる神戸製鋼所の切削工具事業。今から7年前のこと。この時も世間はびっくりした。そして社名も三菱マテリアル神戸ツールズとかわる。その経営トップに送り込まれたのが、「仕事師」の太田拓夫氏。同氏の今の売り口上は「ソリッド世界1」。

 生れ育ちは横浜。3代つづいた浜っ子。慶応義塾に進む。専攻は経済。
 学生時代は、70年安保闘争の賑やかな時代だけに「あまり学校には行かなかった」と言う。
 そして卒業、就職は当時給与が一番高かった三菱金属を選び入社。志望動機は「給与が良かったから」と、わかりやすく正直だ。それと今ひとつ、鉱山会社だけに、都会育ちの太田さんとしては、ローカルへの憧れのようなものもあったようだ。
 しかし、鉱山会社と思い込んで入社してみると、配属先が「大井町」と聞き、それは「ナニ県」と思ったら、品川のトナリ、「こりゃなんじゃ」と、さらに工具をつくる工場と聞いてびっくり。1970年のこと。
 当時の三菱金属の超硬工具部門は、東芝タンガロイ、住友電工と3社で、抜きつ抜かれつの市場競争を展開していた。
 会社としては鉱山の先細りから、超硬製品を主体とする加工品部門に、人材を集中する転換期でもあった。
 そんな状況の中で、大井工場の生産管理が、入社第一歩のスタートであった。
 当時の生産管理は、パソコンも無い時代だけに、全部が手仕事。受注、在庫、入荷、注残と手書きで伝票をつくる。入社6ヵ月でチーフと呼ばれ、全部の責任を持たされる。大井では8年間を過ごした。
 そして、30才の時に、名古屋支店で初めて営業に出る。
 製品のつくり方は知っている太田さんだが、その製品が、実際にどのように使われているのかわからない。これでは営業は勤まらないと、後輩の技術屋さんからアドバイスをうけるが、「全部憶えるのは無理な話し」と、2つだけ憶えてくださいと、汎用材種「UTI
20T」と高速切削用のサーメット。
 営業は卸しの流通担当。だが、営業に使うクルマの免許がない。早朝、1ヵ月教習所に通い免許を取得。
 営業マン太田の仕事ぶりは「UTI20T」の太田と異名をとるほど、どの問屋を訪問しても、「UTI20T」を売りまくる。注文をくれなかったら、粘る。「注文をくれるまで粘ったなぁ」と言う。また、「UTI20T」以外、余り知らないものだから、5年弱ほとんどこれで押し通した。
 2回目の名古屋支店の時は、支店長が大井時代の上司。景気はどん底、営業成績が上がらない。この支店長には「毎月、支店を代表してどやされ通し」の1年6ヵ月。この支店長とは計12年間、上司、部下の関係で仕事をつづけた。太田さんは「親父みたいな人だった」と述懐する。
 そして本社に戻り超硬製品課長。太田さんは仕事上の良い先輩にも恵まれ、彼らから経営の基礎を学んだ。
 太田さんが、持てる実力をフルに発揮したのが8年弱の欧州時代。
 業績が芳しくなかった欧州を見てこいとの社命で欧州へ。当時の加工品担当役員に「この状況がつづくと倒産ですよ」と報告すると、「それならばお前が行け」と言われる。45才の時だった。
 しかし、英語が出来ない。2週間ほど教師を雇って特訓。そしてドイツへ。だが、ドイツではその英語が役に立つことはなかった。
 苦肉の策で、欧州各地から指示を仰ぐ。電話での応対をやめ、FAXでやりとり。YESかNOか明確だからこれが成功だった。
 太田さんが会社から与えられた課題は、「単月黒字」。これも赴任4ヵ月にして達成。つぎは、売上げ倍増、これも1年6ヵ月で達成。そのつぎは累損一掃を本社から言ってくる。これは2年でやった。
 これで内心は日本に帰れると思った。だがそう甘くはなかった。「さらに売上げ倍増」の指示。これも、キャンペーン期間中に2千台のカッタを販売するなどで、なんとかクリア。
 そして8年弱で売上げを4倍増にした。売上げ4倍増はクチでは簡単だが、ユーザーニーズが大きく相違する海外では、カンタンではない。
 ニーズを分析、本社にフィードバック。これを製品に反映させる。結構、緻



THK 寺町彰博社長

 LMガイドのパイオニアでシェア70%を誇るTHKが、超精密からラフな精度までの
幅広い要求に応えるため、4月1日から従来の精度規格を改訂、実施に移した(詳細は前号参照)。多様化する顧客の精度要求とコストダウン双方に貢献していくための措置として注目されるが、創業35周年に当たる今年は韓国関連会社SAMICK THKの新工場及び中国THK遼寧工場の竣工に引き続き、山形工場の第3期増設着工や中国無錫工場第2期工事のスタートなど「2010年には売り上げ3000億円」という目標を見据え、効率化を追求しつつも大幅な増産体制への舵を切る。LMガイド新精度規格実施を機に寺町彰博社長を訪ね、同社の「過去・現在・未来」を語ってもらった。

 06年度の設備投資は連結ベースで200億円、過去最高の規模となる。寺町社長によると、70億円投資すれば100億円の生産能力が増加するとのことだが、この200億円規模に達する設備投資でさえ、今後の30年を臨む「序章」に過ぎない。
 「機械要素を手がける有力企業としての地位を不動にしていくため、『グローバル10 21』と呼ばれるスローガンを掲げている。機械要素部品メーカーとして世界のトップ10に名を連ねることに主眼がある。売り上げ規模で言えば、1兆5千億円にまで拡大させていくことになる」という壮大な目標があるのだ。中期的には5年後の2010年度までに売り上げ3000億円達成を目標に置く。
 THKの前身である東邦精工設立4年後の昭和50年、父である創業者の下に25歳で寺町社長は入社、甲府工場に配属された。大学卒業後、1年半ほど、オークマで現場と生産技術を担当していたが
「工作機械メーカーは当時、不況の真っ只中。比較的健闘していた
オークマも例外ではなく、早期退職を募ったりしていた」そうだ。
 昭和47年にLMガイドの原型ができ、寺町社長入社時の昭和50年には毎月、前月の生産を上回る状態が続いた。1年で5倍の拡大をもたらすほど、LMガイドは客先に急速に浸透していったと言う。
「工場長となった昭和52年になると、年間で3日しか休みが取れなくなり、翌53年は6日という有様。当時、従業員は150人体制。創業から山梨県下で毎年、15人から25人ペースで採用していたが、ころがり化したボールスプライン、LMガイドが予想以上に評価され、甲府工場の移転新築を皮切りに山口工場、山形工場と順次、製造拠点の拡充に繋がっていった」
 業績はまさにイケイケ、ドンドン。しかし、山があれば谷もあるのが世の常。バブル崩壊後の平成4年には業務改革(業革)を断行し、工場では、「仕掛り0.4ヶ月、材料ストック1・1ヶ月、製品完成まで1ヶ月」という、ジャスト・イン・タイム生産の仕組みづくりを実践。また、ITバブル崩壊後の平成13年には"業革"の本道をさらに極めていき「在庫は悪」の認識をいっそう徹底させた。
 「この2つの大きな不況は、当社の業務改革を大きく前進させてくれた。たとえば、平成13年度には全世界の受発注状況などをシステム管理できるようになり、以後の客層の広がりにも一役買ってくれた」
 そして、平成16年春あたりからの景況の回復と提案型営業の前進で、毎月10数%の業績アップを記録。右肩上がりを回復し「世界トップ10」を伺う機械要素部品メーカーとしての地歩を固めていく。
「有言実行で、とにかく自分を追い込んでいく」とうのが寺町社長の基本スタンス。中国・遼寧(大連)工場(2万2千平米)の5月完成、中国・無錫第二工場(2万平米)の10月完成、山形第三工場(1万9千平米)の11月完成という生産拠点の新設、増設ばかりか、物流の効率化を図るべく岐阜の商品センター(7千平米)の母店化を進めている。
 まさに快進撃の1年であり、今回のLMガイドの精度新規格制定とその実施は、より広範なユーザー層を捕え、既存の電気・電子関連、工作機械関連、一般産業機械関連分野へのさらなる浸透と新分野発掘への大きな足がかりを得るものとして期待は大きい。
   ◆
  (取材メモ)
 1時間程度の取材を申し込んだが、筆者がノートを閉じたのはスタートから2時間半後だった。予め質問要旨を提出していたが、話題豊富で、しかも相当、昔の事でも細部まで記憶している。製造部長時代の苦労話など、割愛させていただいた箇所も多い。映画鑑賞、なかでもSF映画のファンで「未来を先取りする、その映像は、景気をストレートに反映しており、経営のヒントにもなり得る」という。東京生まれの55歳。



大阪工機 柳川重昌社長
 今、日本で技術力を優先させ、削りに特化した切削工具専門商社で、三本の指に数えられるのが「大阪工機」。その3代目社長が柳川重昌氏。学生時代、左翼系教授の勢いが強かった大阪市大のキャンパスにあって、マルクス哲学に興味を持ち、その研究会に入り、学生運動にも多くの時間を割いたと言う。当時の進歩派学生像そのものだったようだ。その柳川社長が今、ものづくりの基礎的要素材のツールに、そしてそのビジネスに、新たな息吹を吹き込んだ闘いをはじめている。

 柳川社長が生まれ育ったのは、岸和田市の農家。
 生家では妹さん2人と3人兄弟。言ってみれば農家の跡取りだ。その柳川さんが、少年時代から夢を見ていたのが「発明家」。
 そして、その志しを貫くべき進学したのが、大阪市大の工学部だった。その学部にあって応用物理を専攻した。柳川さん自身、大学院へ進んで勉強するつもりではあったが、父親が病に倒れるといった環境の変化で、その道を断念せざるを得なかった。
 柳川さんは学生運動での青春のほろ苦い一端を「マルクス哲学の唯物弁証法で、物の本質を捉える勉強は、今もビジネスで役立っている」と、振り返る。
 「父親倒れる」で、学業を断念せざるを得なかった柳川さんは、ペンをクワに代えて農業仕事を父親に変わってすることとなる。
 「かれこれ、農業をやったのは期間にして6ヶ月程度かな。真剣にやったのは2ヶ月、あとはおざなりだった」と話すように、農業仕事は、柳川さんを満足させるに至らなかったようだ。
 それを前後して、柳川豊吉現会長が、大阪工機が「資本金を倍増したい」とそれを引き受けてくれないかと言ってきた。
 当時の大阪工機は社員20名程度、大阪を中心に仕事を展開していた。しかし、社内財政は厳しい状況にあった。取引先の住友電工から資本を入れるか、あくまで自主独立を貫くかの岐路にあったわけだ。
 柳川現会長は後者を選択した、そして資本と柳川社長が大阪工機へ入社することとなった。22歳の時である。
 入社してわかったことだが、会社の状況はかなり悪かった。柳川社長の言葉を借りれば「いつつぶれてもおかしくなかった」と言う。
 大阪工機での第一歩の仕事は、セールスマンだった。「社名と住所」だけをリストを持って、大阪南部を中心に飛び込みセールスをやった。玄関払いされるところや、運良く担当者に会えても、すでに他の業者が入っていてスキがなかったりであった。
 その頃の大阪工機の商材の中心は、イゲタロイのロー付けバイト、そしてバイト用のチップだった。その
「イゲタロイ」のブランドで知られる住友電工との取引きは古い。柳川さんは「住友には公私とも世話になっている」と両社の信頼関係はかなり強い。
 また、客先きを訪ねても訪ねても断られつづけても、気持ちが挫折しなかったのは、一番のセールスマンになるんだと言った強い意思があったからだ。
 そうした悪戦苦闘も、経験を重ねるにしたがって、ヒット数を上げていく。同社の直需部門の主力得意先のひとつ三菱電機や島精機(和歌山市)も、柳川社長が開拓した。
 「くち下手だし、お世辞ひとつも言えんし、セールス向きではなかったが、その頃、工具屋さんの入ってなかった金型屋さんも、結構開拓した」
 そんな柳川さんもセールスマン時代、失敗もあった。
 「念押しの電話一本を惜しんで、臍を噛む思いをしたこともあった」ある大手の建機メーカーには、仮口座をつくるまで漕ぎつけながら、電話一本を惜しんだために商談が飛んだ。そこから得た結論は「打てる手は全て打って」と言うことだった。
 そして、営業部長、専務、社長に就任し4年目、この3月期も売上高130億円台にのせる。
 実質的に社長業をこなしていた専務時代から、同社は新たな試みに取組んできた。取組んで20年目に花が咲いた光ケーブル事業、欧米からの輸入工具や放電関連のEDM事業も収益性を伸ばしはじめた。
 さらに、自動販売機と位置づけるWEB事業も、徐々にではあるが、軌道にのりはじめた。広島の山崎商会を合併するM&Aなども、柳川社長のリーダーシップで進められた。そして、この4月、11名の学卒者を新入社員として迎える。「流通業の成否は人材」の信念には揺ぎがない。
 新たな商材の発掘についても積極的だ。直近では、工具精度ナンバーワンのマパールの代理店となり、同社製品を2億円近く在庫した。
 柳川社長は話す。「売り上げも大事だが、収益性を高めることがより大事。同業他社にないものを商材として発掘すること、削ることは大阪工機に任せて安心と言った技術力を社員レベルで共有できる企業」を目指す。平たく言えば、メーカー代行業だ。メーカーに必要な技術力を持った商社、大阪工機がこれからも生きていく道と言う。


米沢工機 青木俊一社長
 物静かな人である。米沢工機は機械商社として前期(12月決算)110億円を売り上げた、全国屈指の"実力派"。そのキーマンが青木俊一氏。社長就任からもうすぐ1年になる。
 「150億円の売り上げが継続できる会社にしていきたい。組織づくりは入社以来、一貫して追求してきたテーマで、今年は福岡と名古屋に営業所を開設する予定。その前提となる人づくりに今後も全力を挙げていく」
 淡々とした口調だが、熱い。
 "ブラブラしていた"21歳の時、米沢工機にいた叔父の勧めで入社した。牧野フライス製作所で1年修行を積み、その後、三菱電機、グラフィックプロダクツで研修を受け、金型図面やNCデータを出せるようになったばかりか、機械のサイクルタイムも出せると言う。
 技術に裏打ちされた営業提案で、それまで同社がアプローチできていなかったホンダや日産自動車、三井金属など大手ユーザーを次々と獲得。入社5年後の26歳でトップセールスマンになった。
 「スタンドプレーの強い業界だと思うが、中堅以上の顧客を相手にするには会社の組織力が大切。この頃から脱個人力を意識するようになっていった」
 裏を返せば人をどう育成していくかということに通じる。28歳で単身、台湾に自動プロの販売に赴き、台湾・松下やフェデラル、ホンダなどと取り引きをスタートさせ、海外での商談に成功。30代半ばにはタイやインドネシア、フィリピンの各エリアに営業拠点網づくりに奔走するようになる。言わば青木氏の足跡そのものが組織づくりの下地を形成していくことにつながっていく。
 国内では「東北の米沢」をアピールするため福島営業所を充実させ、「北関東の米沢」の基盤を築くため宇都宮支店の開設に尽力した。
 「人の育成と合わせ、採用の難しさも実感した。試行錯誤の末、地域の人のつながりの大切さが身に染みた。例えば宇都宮で言えば、その土地の人を採用すれば、同期の人が富士重工に勤めていたりして、ユーザーの広がりにも一役買った。人材の育成の点では、CAD/CAMを理解したり、プレスやコネクタに精通するスタッフをどれだけ抱えることができるか。そういった技術に通じる人も育ってきているが、点ではなく層として形成させていくことが私の重要な仕事」
 機械を買って頂くためのサービス・技術支援をどのようにして米沢として築き上げていくか、それによって新たなビジネスチャンスを掴むということが青木社長の念頭にある。そのためにも技術に裏打ちされたトータルな営業提案が不可欠になる。
 「1人で2億円の販売を基本に置くとすると、1人で4億円を売り上げるようになった時点で、もう1人を当て、2人で『4億円』にする。個人プレーでは限界があるし、ブレが大きいばかりか、会社としての蓄積にならない。組織力に還元してこそ、総合力を客先に提案できると考える。私が確信する『営業はアドリブができないとダメ』の底上げにも通じてくると思う」
 青木氏が社長に就任した前期の売り上げ成績は、国内90億円、海外が20億円。その前の期がトータル70億円強だったことを見ると、50%以上の飛躍を達成したことになる。国内は福島が一番伸び率が高かった。
 「ユーザー先で機械の選定に当たる人の年齢層は30代半ばくらい。何よりリスポンスの良さが望まれる。福島営業所の所長には同年代の人材を据え、客先に対応したのが功を奏したとも言え、景況の良さも手伝って10億円を売り上げた」
 バブル期には100億円台が2?3年続いたこともあったが「今は地道な努力の積み重ねによって達成した数字」と青木社長は胸を張る。名古屋、福岡営業所開設、海外では、中国・大連、広州に続き、上海での拠点づくりも視野に入れる。「150億円継続」の組織づくりの新たなスタートが06年に切られる。


イスカルジャパン 高橋進社長
 今から12年前の春、大阪府豊中市の、大阪万博会場跡に近い千里中央の一角で、「イスカルジャパン」は、産声をあげた。発足当時のメンバーはと言えば、高橋進社長と小宮営業本部長の2人だけ。会社を立ち上げたものの、人集めから、販売ネットづくりと、ほぼ0からの出発。あるものと言えば、イスカルのブランドだけ。それから12年、今では社員数70人、05年の販売額も50億円を突破。つぎのステップ100億円の背中も見えてきた。このイスカルジャパンを引張る高橋社長は、学生時代、大の英語嫌い。それが理由で大学の専攻も、機械工学だった。その英語嫌いの人が、外資系のトップで頑張る人生とは、不思議なものだ。

 04年秋の東京JIMTOFで、イスカルのブースの高橋社長のいつもの姿が見られた。しかし、この時すでに、高橋さんは医師から「肺ガン」の宣告をうけ、一日も早く手術を求められていた。この事実を知らされていたのは、小宮取締役だけ。
 手術は片肺を全摘する大きなものだった。しかし、高橋さんは頑張った。入院から4ヵ月目には、イスカルジャパンのオフィスには、高橋さんの姿があった。見事な社会復帰だった。
 以前から変わったことと言えば、タバコをやめたこと、仕事中はノーネクタイ、体型が少し太目になったことぐらいだ。
 社会人のスタートは英語が嫌いで、機械工学を専攻したものの、いざ卒業を控えて、就職時期を迎えると、機械図面に埋るより、少し広く社会を観察して見たいのと、ビジネス社会で英語が必須になると考えて、東京銀座の貿易会社でサラリーマンの第一歩を踏み出した。初任給は3万円弱。与えられた仕事は、船の図面を書くことだった。
 この貿易会社のオーナーは、女優の大空真弓の実父で、社員数200名程度だった。会社そのものは、自由な雰囲気で一杯だった。「自由と言うより、今から考えるといい加減な会社だったなあ」と高橋さん。
 会社に出勤するより、近くのコーヒーショップで、モーニングで腹ごしらえ、そこに部長や上司がやってきて、営業会議がはじまる状況。
 東京銀座の並木通りのオフィスでは、3万円弱のサラリーでは、毎月が赤字、赤字。銀座のクラブ、バーに行けば、70年代でも1万円や2万円はすぐ吹飛んだ。
 「実家から月々2万円仕送りしてもらいながらひどい時は給料日から3日目には、財布はカラ、時計やカメラなどは質草になった」と言う。見かねた女子社員が、女物の腕時計を貸してくれたこともあった。
 貿易会社の花形は、海外駐在員。志願し選ばれてインドネシアへ家族と共に赴任。サラリーも上った。
 インドネシアの駐在員生活も、悪くはなかったが「メイド二人と運転手つきだから、女房教育に悪かった。女房に物を頼むと、右から左へメイドに通訳。メイドが世話する。女房本人は家事はメイドがやるものだから、本人はヒマでゴルフやテニス、マージャンと遊びまくる」
 こんな生活をつづけていたら、帰国した時が大変だと、帰国を考えた。
 切削工具との出会い。
 インドネシアから帰国した高橋さんは、貿易会社の経営に不安を覚えることが再三あった。そこで転身を考える。(因みにこの貿易会社は退社後3年にして倒産)
 1978年34才の時に再就職先は「京セラ」だった。面接は稲盛社長(当時)が行った。京セラでの配属は海外事業部。専攻が機械工学だからと言うことで、セラチップの輸出を担当するのが、工具との出会い。
 「大学時代、研究室で工具寿命の研究を行っていたので」と言うから、ズブの素人ではない。
 英語はこの京セラ時代、米国や欧州の海外出張で自然と身についた。
 イスカルとの出会いは、米国で「イスカルの評判を聞き、サンプルを買ってきた」。その社内評価と前後して、イスカルの創業者が、国内の超硬工具メーカーを訪問、京セラに提携を求めてきた。
 そこで、稲盛社長から呼び出しがあり、「イスカルをどう思うか」と問われた。高橋さんは、「京セラとしてやるべきだ」と答えた。
 それがきっかけで、京セラとイスカルは提携する。ひと頃は、工具事業部の利益の大半はイスカルが稼いだこともあった。イスカルの当時の京セラ担当は、現CEOのハルパズだった。しかし、社内で高橋さんの立場は、反対にこれが原因で製造部との関係が悪くなる。
 そして工具事業部を自ら飛び出し、クレサンベールへ配転。
 京セラ時代について「大変良く勉強させてもらった。英語がある程度出来る様になったのも、京セラ時代。しかし、仕事もよくした。夜22時前に退社することは稀であった」と言う。
 そして、ハルパズの誘いでイスカルジャパンを立ち上げる。イスカルの代理店大阪工機の柳川社長に「外資系なのに、プロパーを育てる姿勢は評価できる」と、ほめてもらった時は、自己のマネージメントに間違いがなかったと確信したと言う。


ダイジェット工業 生悦住望社長
 ダイジェット工業が、無借金経営のかつての栄光をとり戻せるかは、これからの数年が「勝負」である。生悦住社長は、自社の現状について「今は病後のリハビリが終了して、筋肉トレーニングの時期に入った」と分析する。超硬工具の業界で、カリスマ経営者と呼ばれた、創業者故生悦住貞太郎氏を義父に持った生悦住望社長の戦いは06年もつづく。

 生悦住社長の学生時代は、質素だけど「春、秋は野球、夏は水泳、冬はスキー」と、ノンポリ派で学生生活を楽しんだ。本人曰く「余り勉強しなかった」学生だった。そのツケが、昭和33年の卒業時に、鍋底景気下の就職活動に来た。
 兄が銀行マンだったことから、違う分野と言うことで、就職の第1志望は「東芝」だった。当時の就職試験は、各大学ごとの試験。慶応大学の採用枠は1人。その1人のイスをめぐって40人が競った。だが失敗。
 あとで判ったことだが、試験成績は2番だった。次に受けた日本通運に入社。厳しい実家の親元を離れて、勤務志望地を「関西」としたら、奈良支店に配属。初任給1万4千円で奈良支店の管理部門で、サラリーマン生活の第1歩を踏む。
 その気楽なサラリーマン生活も3年目で、生悦住貞太郎氏の一女との結婚問題で、終りを告げる。
 義父貞太郎氏との出会いは、生悦住さんの実父が、終戦時、県知事をやっていたことで、GHQから「公職追放」になり、浪人生活を余儀なくさせられた。パージが解除になると、時の文部大臣が、内務省同期の灘尾弘吉氏で、その灘尾氏から、学校給食会の立上げを依頼され、その仕事で社会復帰。
 一方の貞太郎氏は、改進党(後の自民党)の国会議員だった。ある人が「珍しい同じ生悦住姓だから、一度会ってみては」と言うことで、親同士が友人になる。
 そんなことから、貞太郎氏の娘さんとの結婚話しが持ち上がった。
 「俺は、養子は絶対イヤだと頑張ったんだが、親同士が密約しちゃったみたいで」と言う。同じ生悦住性だが、家系図や過去帳で、7?8代遡っても、両生悦住家のつながりはない。そして、義父貞太郎氏と、住宅事情から同居生活がはじまる。
 ダイジェットの入社は、昭和36年。

 当時の同社は、超硬工具と言っても、引抜きダイスやビットが主力製品。切削工具は、手つかずの状態。入社時の社員数は160人前後の規模。入社してみても特別扱いは一切なし。初任給も1万3千円と、日通より安かった。仕事もキツかった。
 仕事は営業管理からスタート。「管理と言っても電話番だな」と言う。そして、営業の実践部隊に配属。大会社の前を通る時、常に「早くこんな企業との取引きが出来なければ」と思った。
 そんな矢先き、同社が業界に先駆けて、幅広い切削条件に対応できるチップを開発した。
 「SRT、KT9」の鋼、鋳物用の2種類だ。当時は集約材種と呼んだ。
 これを新聞で知った「石川島播磨重工・相生」から、「テストをやりたいので、サンプルを持って来い」との連絡があり、生悦住さんは、そのサンプルを持参、そのテストの結果「OK」で取引きが出来た。この時の感激は、今もって忘れていない。
 「顧客が広がるのは、やはり良い製品をつくり込みをした時だな、はじめてのワンカットエンドミルの時でも、代理店の顔ぶれが、昔のものとガラリと変わっちゃった。在庫もしてくれる」と言う。
 その最たるものがカッタの「フューチャーミル」だった。義父貞太郎の「乾坤一擲」のこの勝負は、業界を「アー」と言わせた。景気、不景気にかかわらず、このカッタは「売れに売れた」。それを支えたのが、同社の合金技術だった。
 義父貞太郎は、超ワンマン社長。幹部の中には、社長室がコワくて、用事があっても、ノックが出来ない人もいたほど。
 生悦住さんは、そんな義父から常に、叱られ役だった。自分の責任でもないのに、万座の中で、「ボヤボヤするな」と大声で叱られることが、再三あった。心配した役員が「社長もわかって叱ってることだから」と慰められる始末。
 そんなワンマン義父だから、会長になっても、病気で入院しても、経営の実権を放さなかった。
 昭和58年頃、そんな義父もその実権を生悦住さんに渡す。入院中に見舞いに来た客にも「会社のことは息子がやってるから」と話したと言う。
 先代の遺言は、東京証券取引所に上場することだった。戦前、経営していた大阪特殊製鋼は、大阪証券市場には上場を果したが、東京証券上場の夢は叶うことがなかった。義父貞太郎の生前に、それを果すことが出来なかったのが、今でも残念だと言う。
 バブルがはじけたあと、同社の業績は、低迷をつづける。


大阪機工 土井隆雄社長
 7月14日、伊丹市のOKKの本社で、ショールームの拡充とテスト加工ができる「テクニカルセンター」のオープンセレモニーが行われた。
 土井社長は来賓を前に「この3年間で、50億円の累損を6ヶ月前倒しで解消。130億円の有利子負債も50億円減らした」と、財務体質の改善が順調に進んでいることを報告。受注状況も「向こう1年間は、多忙状況が続く」と話した。土井社長は、物心がついた頃から、何かを作ることが大変好きな子供だった。父君は新聞社勤務のサラリーマン家庭で、6人兄弟の末っ子。それだけに「自由に育った」。お小遣いをはたいては、模型と格闘したり、ステレオを組んだりの、少年時代の「ものづくり」の精神は、OKKの経営にも溌剌と生きる。そして景気の足取りが上昇に転じた時に、社長に就任。部下は「強運の持ち主」と言う。低位株の指定席だったOKKの株価も、500円台を視野に入れた400円台を推移する。創立100周年に向けて、好調路線を走り出した。

 1966年神戸大学機械科を卒業した土井さんを待っていたのは、就職難の時代だった。志望は自動車関係だったが、一歩譲ってOKKに入社。
 その当時のOKKは、社員数1800人の大所帯。配属された先が、トランスファーマシンの設計部門。初任給は4万円。初めて買った車は、得意先のマツダ車であった。
 入社して間もなく、工作機械部門が大多忙に突入。「自分で設計したものを、現場で自分の引いた図面を追いかけて、品物にする。さらにそれを組み立てる」そんな日常だった。
 そうした新人時代の最たる思い出は、マツダに納入したトラマンに水漏れが発生。「土井君行ってくれ」と上司のひと言で、12月30日の工場の打ち上げの日に、長時間汽車に揺られて広島のマツダ工場まで1人でトボトボ出掛けたこと。
 工場に到着すると、親分肌の組長が「来年でいいから」と帰らせてくれた。そうした経験から、仕事上での「自己責任」が、知らず知らずに身についた。しかし、かなり荒っぽい社員教育だったと、今でも思い返す。
 入社10年目に、サービスマンとして米国に派遣される。当時、OKKの立型のマシニングセンタが、米国で半年に30台も売れるヒット。マシンのアフターサービスを担当した。大手航空機メーカーにもかなり納入された。
 その時、「こんなに売れるものか」と、自分ながらびっくりした。
 ニューヨークのロングアイランドに居を構えて、5年間、米国生活を新婚間もない奥さんと頑張った。
 帰国後は、内製化をはじめたボールスクリューの生産スタッフとして工場勤務。この経験が後にものをいう。
 初めて課長の肩書きの入った名刺を持ったのは、組み立て課長の時。
 当時を振り返って土井さんは「入社して以来、あんな仕事をやりたいな、こんな仕事をやりたいなと思ったら、不思議と向こうから仕事がやってきた」と言う。こんなところにもツキの強さが垣間見える。
 組み立て課長も、やりたかった仕事だった。部下の組長さん(当時はそんな呼称だった)90人を束ねる職責は重いが、よく働いた。
 1年365日の内で、休日は正月休みを含め、両方の指で数えるほどでしかなかった。
 部下の組長とは、意見の食い違いから、ケンカもガンガンやった。人間研究もこの時代に学んだ。ケンカした人の中には、半年ぐらい「ものを言ってくれない」人もいた。しかし、ほとんどが、仕事を離れると、和気あいあいの家族のようだった。
 肩に力が入ったのは、この組み立て課長時代。予算が達成できなかったら、自分でクビだと腹をくくって仕事をやった。
 当時、1100人で土曜日も働いて1100台のマシンを作っていた。今は500人で800台の生産実績。「ものづくりも、時代に応じて賢くなっている」と実感するという。 そうした濃密な人間関係の職場から、従来の生産管理システムの再構築を担当することになった。いわゆる、シムシステムだ。
 富士通の協力を得て、4名の専任プロジェクトで手探りでのシステム作りだった。このシステムを構築するのに、4年の歳月を要した。このシステムは、今でも、OKKの生産管理の要となっている。
 これについて「果たして、この10年に定着したシステムが、本当にベターなのか見直してくれ、と若い社員に言っている」と土井社長。
 この生産管理を実践するため、製造部長に就任。現場での抵抗は、無かったと言えば嘘で、上手に説明すると、ほとんどが納得してくれた。
 土井さんは、「苦労して作ったシステムだから、人に聞かれると成功したと言うほうが格好良いが、正直なところ、確信して言えるのは、悪くはなっていないことだけ。考え方のレベルを上げるには勉強になった」と。トップが自分の仕事を振り返って、ここまで言える人は少ない。
 土井さんの好きな言葉に、囲碁の格言の「着眼大局、着手細局」というのがある。構想は大きく着手はきめ細かくなのだ。
 入社以来、社長のイスは雲の上と思っていた。与えられた仕事を、ほとんど好きな仕事であったが、着実にこなし、役員になり、社長になったのも、自然体だった。
 ストレスの解消法はゴルフとインターネットで対局する碁。実力は3段程度。直近では社内の大会で優勝。
 現在、乗っている車は、やはり得意先のホンダの逆輸入車「セイバー」で、奥さんと同乗で気軽にスーパーに買い物にも出かける。
 そして、土井社長の日常は、8時に出社、9時には帰宅。月の半分は出張と、やはり体力のいるポストでもある。


岡本工作機械製作所 西本實男社長
がっしりとした体躯、野性味さえ感じさせる精悍な顔立ちで、口を開けば人懐っこさが滲み出てくる。西本實男社長の第一印象を、そう、捕える人は多いはずだ。
 「平(たいら)で世界一を目指す。工作機械、半導体、さらに液晶ガラスなど、当社がお相手させて頂いている分野の加工すべてにおいて求められるのが平面の精度。常に『まったいら』を追求するのが当社の基本です」
 同社のコア技術とその目的は、固定砥粒、遊離砥粒を使った、飽くなき平坦度の精度追求にある。もちろん、内面研削盤、円筒研削盤でも実績を積み重ねているが、平面研削盤はまさにフルラインナップ。それだけ、平坦度の世界で「オカモト」へ寄せるユーザーの信頼と期待が大きいと言えようか。需要層別では液晶や自動車関連の伸びが著しく、総じて受注は右肩上がりを継続している。
 「国内は安中工場、海外でシンガポールとタイに工場を擁するが、今、生産ペースが受注ペースに追いつかない状況にある。特に、2年前くらいから立ち上がってきた液晶関連は機械生産の4割弱を占めるまでの伸長ぶり。業績で見ても売り上げ、利益ともに好調を持続している」
 工場では20年前からすべて「1個づくり」の受注生産を実践してきた。機械の大きさや性能の多様化など、ユーザーニーズにきめ細かく対応しつつ、無駄のない作りこみを目指す必要があるからだ。

 「昔はロット生産だったが、そうすると、工場には部品の山が築かれる。加工サイドに立てば、一見、効率的に見えるが、結果的にロット生産は在庫部品を抱えるだけの非効率生産になる。来年になれば1個づくり生産の効率的な工場として安中工場をご披露できると思う」
 1個づくりはトヨタの生産方式から学んだ貴重な経験。段取り替えが多くなり、当初は「やれるはずがない」と社内でも議論を闘わせたテーマだったと言う。西本社長はそれまで横浜・日吉にあった工場を82年に群馬・安中に移転した際に、その工場立ち上げに関与した。87年設立のタイ工場では生産方式の確立を行なった。言わば生産現場を知り尽くしているトップで、安中工場長を経て、副社長、昨年、社長に就任した。
 「3枚合わせのすり合わせ技術が基本。キサゲ作業ができるのは国内でおよそ40人、海外で100人以上いる。我々の大きな財産です」
 平面研削盤の客先からの要求は従来と比べて一桁違うと言われる。1μが、今ではコンマ5μ、3μのオーダーだそうだ。テレビ画面のマザーガラスは段々と大きくなり、シリコンウエハーは高精度の一途を辿る、それらの反映だ。
 バブル崩壊以降、人、や設備をはじめ「過剰を抑える」ことに努め、タイ、シンガポールの工場はすべて内製化、付加価値の高い機械は安中工場で製作する。「限界利益を上げていく」努力、その直接の目的は言うまでもなく「企業と言うのは半永久的に存続しなければならない。生き残りが最も大切」(西本社長)に基づいている。

 「特殊な機械以外はほとんど、流通を通じた販売。その意味で商社の方の意見をよく聞き、勉強会も積極的に行っている。PSG会は商社の方にメインの平面研削盤に対する理解を深めて頂くために結成した組織だが、認識を深めたいという意欲が年々、高まってきている」
 「技術は正しく」が社是。これを全うしていこうというのが西本社長の信念。現場マンらしい姿勢だが、それが「真心」に通じる。1年間の客先への訪問件数は200件を数える活動ぶり。土、日は移動や会議に当てられ、休日はほとんどないが、ヒマができればフィットネスクラブに通う。広島生まれだが、育ちは福岡・八幡の58歳。
    
 岡本工作機械製作所は大正10年に設立された。歯車加工機械の製造を皮切りに、歯車研削盤などの生産を経て、およそ50年前の1953年に平面研削盤を我が国で初めてつくった。以降、ユーザーの要求に応じ、多様な平面研削盤の生産を本格的に開始。一貫して「平面」加工のエキスパートとして、ユーザーのサポートに努めてきた。「こんな機械ができたから、使ってみてください」ではなく、「ユーザーの悩みを解決する機械づくりを標榜したい」との西本社長のアピールは、社の精神でもある。


高周波精密 中島喜満社長
 「入社して、せめて工場長にはなりたい。そうした意欲は常に持って、仕事に取組んだ」と話す。
 1968年に、九州工大から日本高周波鋼業に入社。大卒の同期生は20名。時に日本経済は、右肩上がりの高度成長期の真只中。最初の仕事は、市川工場、高周波精密の前身である品川工場での熱処理の現場。月の残業時間は、規制のない時だけに、毎月80時間を下ることがなかった。中島さんの青春時代、サラリーマンとしての第1歩は、工場と寮の往復の風景で明け暮れた。

 生まれは徳島県小松島、物心がついた時には、九州福岡県遠賀郡の川筋で育った。学生時代は、土木工学の技術者を夢見て、九州大学を受験するが、失敗。再挑戦は家の事情で許されなかったことから、2期校の九州工大治金科を受けた。
 「特に治金が好きと言うことでなく、就職優先の選択だった」と話す。大学時代は、ガリ勉派でなく、インドアの趣味に興じた。将棋、麻雀は、学生仲間では強豪で通った。
 「就職の第1希望は、今は解散した日本砂鉄。これも失敗。教授に相談したら日本高周波鋼業の推選を得た」と言うから、中島さんの人生の前半は、「第2志望」からのスタートであったようだ。
 「入社した時は、てっきり富山工場配属と、自分で決めていたのが、品川工場だった」と、本人の思惑とは別に、実際のレールは違った方向で敷かれていた。
 「2年6ヵ月、熱処理の現場を汗にまみれて、仕事に取組んだ。大卒だからと言って、区別はなかった。多い月には130時間の残業、毎月の80時間以上の残業は、苦にはならなかった」。今と違って土曜日も仕事だった。一日の大半を工場の中に居た。
 そうした生活が、29才で聖子夫人と見合結婚するまでつづいた。給料は当時「月給」と言った。今のように振込みでなく、手渡しで給料袋を貰う。中島さんは一度も給料袋の封を切らづに夫人に渡した。そこから必要分の「お小遣」をもらう仕組みは、今も変わることがない。
 始めて役職についたのが、35才の時の技術課長。課長時代の思い出としては「トヨタ自動車さんで、エンジンのクランクシャフトのコーナ処理は海外品のローラでしたが、国内調達をしたいとの意向を受けて、当社は1年がかりでその開発のお手伝いをしました」。「当社のフレットロールがそれです。今でもご使用をいただいている」と話す。月に一度はトヨタの工場に足を運んだ。これをきっかけに、自動車メーカーとの取引きが広がる。
 その技術屋一辺当の中島さんが、人間の幅を大きくしたきっかけが、営業への転出。専ら鋼材営業が中心だった。
 「工場に居る時は、営業を軽く見ていた。しかし、営業を担当してわかったのは、会社の将来、方向性を決めるのは営業なんですネ。企業にとってはレーダーのようなもの。営業がしっかりしないと、会社の将来性は見えない」と。
 営業担当を約10年、その間に、日本高周波鋼業の営業担当役員にも就いた。
 営業時代、にがい経験も数多く積んだ。
 「鋼材の場合、最低ロット数を割り込むと、工場赤字が大きくふくらむ。不況や仕事がない時に、営業は必死で量を集める」
 「ステンレスの鋼材でしたが、実績のない得意先きに日参して採算性が悪くても受注した」。「それが景気回復すると、仕事が増える。不採算なものは落す。その断りに、得意先きに行く時は、針のむしろです」。営業の責任者は、常に、会社に対して、ユーザーに対して、どのように責任を取るか、その覚悟がないと仕事は出来ないとも言う。
 月に一度の工場と営業の会議でも、中島社長の大きな声が再三に飛ぶ。「私は怒る時は、烈火のように叱る。しかし、あとはないんです。叱るのは会社のためですが、本人のためでもあるんです」と、見込みのない社員には叱ることさえしない。そのあたりのメリハリは強い。
 6月に社長に就任した時、聖子夫人に話すと、喜んでくれた。だが本人は、責任の重さを痛感する毎日だと言う。
 社長になっても、日常の仕事に変わりはない。駅からバス通勤も以前どおり。午前中、工場を回ることも変わらない。気がついたことは、工場従業員に気軽に声をかける。変化と言えば、酒量が少し増えた程度。
 酒が入ると、カラオケは嫌いではない。オハコはエン歌。中でも「宗右衛門町ブルース」はよく唄う。
 「私は会社にとっては不良社員でしてネ」とも言う。そのワケは、胃の病気で、3回ほど、1ヵ月以上にわたり長期欠勤を指す。一度は、夫人が不在中に倒れ、死線をさまよった事さえあった。だが、今は健康に自信をもつ。
 社長就任の自分なりのテーマは、会社の業績もさることながら、「後継者」をどう育成するかにあると言い切る。
 競争相手は「ユーザーの内製化」と、ものづくりの問題の本質を熟知する。
 工場を離れたのは、営業担当の10年間だけ。工場のどこを叩けば、どんな音色が出るかを知りつくしてもいる。「リードタイムは2週間でないと、ものづくりは生き残れない」とも話す。そのための設備も積極的だ。
 直近の問題点は、素材の高騰。これをフォローの風に、どう切り替えるかにある。